Total Integration course 体験記
コース卒業生
たちの体験談

Contents
Total Integration Course 体験談
Total Integration Courseを修了された方の変化のプロセスをご紹介します。
(※旧・自己統合クラス、旧・弥勒力クラス修了生を含む)
原口 未緒さん
「すべてはわたしの「知りたい欲」から始まった」
<原口未緒(はらぐちみお)さんプロフィール>
弁護士
東京弁護士会所属。弁護士法人C-ens法律事務所にて活動。心理カウンセリング・アカシックリーディングも併用しながら、こじらせない円満離婚の実現を目指します。著書『こじらせない離婚―「この結婚もうムリと思ったら読む本」(ダイヤモンド社)
事務所URL:https://c-ens.jp/
原口未緒さん(以下、未緒ちゃん)は、当時シングルマザーとして多忙な弁護士の仕事をこなしながら、ブッダスクールのすべてのクラスを修了した方です。その探究心の旺盛さは驚くべきものですが、ご本人は「登れる山があるから、ただ登っていただけ(笑)」と語ります。しかし一方で、「どうしても解決したい問題があった」とも話す彼女。
未緒ちゃんは、どのような問題に直面し、それをどう乗り越えたのでしょうか?そして、このクラスでの学びを通じて、どんな変化を経験したのでしょうか?
彼女の体験を伺いました。
すべてはわたしの「知りたい欲」から始まった。
ー ブッダスクールとの出会い ー
私は4回の離婚を経験しているのですが(笑)。回数を重ねるうちに、「相手が違っても結末が同じということは、問題は私自身にあるのではないか?」と思うようになって。そこから、パートナーシップの問題を何とか解決しようと、心理学やスピリチュアル系の講座を片っ端から受けまくっていたんです。
でも、学びを深めているうちに、いつの間にか「知的探究心を満たすこと」自体が目的になってしまって(笑)。そんな流れの中で、齊藤つうりさん(以下、つうりさん)の存在を知ったんです。
私は「知りたい欲」がとても強いんです。たとえば、テレビを見るだけじゃなくて、「この映像はどうやって映ってるんだろう?」って仕組みまで気になっちゃうタイプで。中に入ってる部品の一つひとつや、それらのつながりまで知りたくなるんですよ(笑)。
つうりさんの教えには、まさにその「部品」と「つながり」を解き明かしてくれるような魅力を感じたんです。
ブッダスクールで最初に受講したのは、「スピリチュアリズム探究クラス(2019年開講)」だったんですが、他にもたくさんのクラスがあるじゃないですか。気づけば、「登れる山があるから、ただ登る」みたいな感覚でどんどん受講していって、気がついたら全クラスをコンプリートしていました(笑)
離婚を繰り返した理由、自己統合で見えてきたこと。
ー 自己統合クラスでの知識の統合と新たな気づき ー
私は2020年の「自己統合クラス」を受講したのですが、この年から講義がオンライン形式に変わったので、当時シングルマザーだった私にとって、家で受講できるというのは、とてもありがたかったです。
そして、今までさまざまな場で学んできた知識が、このクラスのカリキュラムによって統合した感覚があって。それがすごく大きかったですね。
あと、「十牛図の絵を描くワーク」によって、自分が「女性を抑圧している」ことに気づいたんです。4回の結婚生活を振り返ってみると、私はいつも相手に頼らず、なんでも自分でやってしまっていて。それが結果的に、夫を「ダメ男」にしちゃったんだなぁ、と。
さらに、もうひとつ大きな問題にも気づきました。それが、母との「共依存関係」です。
私の両親は、私が幼い頃から不仲で、母の愚痴や悩みを聞くことが私の役目になっていて、いわゆる“親子逆転”の状態だったんです。それに、父も私を助けてはくれなかったので、結果として、人を頼ることが苦手で、自分の気持ちを殺したり、自分を責めてしまう性格だったんです。
そんな私も、このスクールでいろんなプロセスを経験して、今ではすっかり「定年退職後のお父さん」状態になりましたが(笑)。振り返ってみると、この頃からようやく、この問題に向き合い始めたんだなって思いますね。
母との別れを超えて、自由になる。
ー 「弥勒力クラス」がきっかけとなった大きな転機 ー
「自己統合クラス」を修了した後、そのまま「弥勒力クラス」に進んだのですが、そこでの「門番のワーク」の体験が、私にとっては大きな変化のきっかけになったと思っています。
それまでの私は、「私が母を守らなくちゃいけない」と思っていたんですが、ワークの中で、母との擬似的な別れを体験して、「母を助けなくても大丈夫かもしれない」という考えにシフトできたんです。
ワークでは、自分が母に必要とされないことが怖くて、大泣きしましたねー(笑)
すると不思議なことに、その後、母との関係に変化が現れたんです。
それは、「どうして私があなたを助け続けなきゃいけないの?」という怒りが芽生えたことから始まりました。その思いがどんどん強くなり、母と口論になった末、突然母から「親子の縁を切る」と言われたんです。
その時、私も母から離れたい気持ちが強くなっていたんですが、まさか母からそんな言葉が出るとは思ってもいなくて、すごく驚きました。それから母とは会っていませんが、このクラスを通して、私は本当に大きな変化を体験したんだなと思います。
私が私であることの大切さ。
ー ブッダスクールは「個性化」を教えてくれた場所 ー
ブッダスクールで学び、自分を理解していく中で、さらに気づいたことがあります。
ひとつは、私はなぜ弁護士という仕事を選んだのかについて。父は、母との関係が悪化してから、早々に家を出てしまったんです。少しでも父と同じ話がしたい、父と同じ世界にいたい、父のことを知りたい。きっと、そんな動機があったんだと思います。
そして、私はなぜここまでパートナーシップの問題解決にこだわり、学び続けてきたのか。結局のところ、母が果たすことのできなかった「幸せで長続きする愛し愛されるパートナーシップ」を理解するためだったんだと、改めて感じるようになりました。
この気づきがあったことで、仕事の取り組み方に変化が生まれましたし、そろそろ学びをお休みして(笑)、これからはパートナーシップの実践に取り組んでいこうと思っています。
最後に。ブッダスクールを一言で言うなら、「自分と出会う学校」かなと思います。
個性化の意味や大切さを学んで、「人が求める自分」ではなく、「私は私で良いんだ」とようやく思えるようになりました。
そして、これからも長い付き合いになる仲間にもたくさん出会えて、ほんとにかけがえのない学校だなって感じています。
まつばら あや さん
「自由を探し続けて、地球に還る」
<まつばら あや さんプロフィール>
イラストレーター・アクセサリー作家・理学療法士。
1987年生まれ。長野県出身。
フランス滞在中、当時3歳の娘さんと共にリビングルームを拠点としたアート活動「リビング・アトリエ」をはじめる。絵や音楽の制作をしながら、2024年よりリビングを飛び出して、日本画アクセサリーブランド「In Planeta」を立ち上げる。現在は、絵とアクセサリーを楽しむ場として、全国のご縁のある場所をめぐり、個展を開催中。
In Planeta:
https://www.instagram.com/in_planeta/
リビング・アトリエ:
https://note.com/living_atelier
まつばらあやHP:
https://ayamatsubara.net
まつばら あやさん(以下、あやちゃん)は、ブッダスクール第1期(2019年開講)の「旧・自己認識クラス」と「旧・弥勒力クラス」を受講されました。当時、受講生の多くが40代以上の中で、30代になったばかりのあやちゃんはひときわ目を引く存在でした。
穏やかな笑顔と静かな知性が印象的な彼女は、落ち着いた雰囲気を持ち、一見すると人生の苦しみから遠い印象を与えるかもしれません。そんな彼女が、2歳のお子さんの育児に追われる多忙な時期に、なぜ受講を決意したのでしょうか。
あやちゃんは、こう語ります。
「わたし、ブッダスクールに入るまで、“力半分”で生きてきたんですよね。
でも、とうとう本気で自分の生き方に向き合わないといけないって感じたんです。
だから、自己認識クラスに入ったときは、ほんとうに緊張してたんですよ」
彼女の受講動機、そしてクラスを通しての気づきや変化について、じっくりと伺いました。
“本気を出さずに生きる”ことで守ってきたもの
私は、物心ついた頃から結婚するまで、常に“余力を残しておく”というか、成果が出せるものしか選ばないタイプだったんです。拘束されたり、強制されたりするのが本当に嫌で、どう上手に逃げるかが大事でしたね(笑)。
学校の先生に見つからないように、自分なりに要領よく振る舞っていたつもりだったんですけど、ある日ゼミの先生に「お前、力半分で生きてたよな。いつ本気出すんだ?」って、ズバリ言われて。必死に隠してきたのに、バレていたことがショックでしたね(笑)。
その後、音楽療法に興味を持って、あるバレエピアニストの先生に師事することになるんですけど、その先生にも、また同じようなことを言われて(笑)。
ーー 本気出すことをどうしてそんなに避けてきたの?
うーん…。どうせこの場所から自由になれないのなら、せめて頭の中だけでも自由になろう、という感じですかね。
自分の空想や創作の世界にいる時が、本当の自分でいられる時間でした。そこにエネルギーを注ぐために、それ以外のことは「省エネモード」って感じだったんですよ。
今振り返ると、わたしは「自分と他人の境界線」をうまく引けない人間だったんですよね。相手に感情移入しやすくて、子供の頃からそれに疲れてしまって。「このままじゃ、生きていけないかもしれない」って思うくらい、しんどかったんです。でも、親も友達も大変そうで相談できそうにない。
だから、毎日日記を書いて、それを“もうひとりの自分”が読んで、私にアドバイスする──そんなプロセスを繰り返していました。結果として、外の世界にエネルギーを割くことはどんどん減っていった、という感じですね。
娘を前に、私が問われたもの
”力半分”の状態で、理学療法士として社会に出て、その後、夫と結婚して、29歳の時に娘を授かりました。娘が乳児の時は、よく寝るし、夜泣きもしないし、余裕な感じで育てていたんですけど、1歳過ぎたあたりから娘のアトピー症状が出てきて。掻きむしって全身血だらけなんです。
私も医療機関で働いていたという驕りもあって、自分の知識の範囲で治療できると思っていたんですけど、実際には、そうはいかなくて。むしろ自分の慣れ親しんだやり方で対処するほど、状況は悪化する一方でした。
それで、「これは、私が外に出て変わらなきゃいけない」という確信が芽生えてきて、ブッダスクールに入ったんですよね。
当時、そんな妻の突然の選択に夫はとても驚き戸惑っていました。わたし自身もうまく説明できなかったんですけど、それでも「これは絶対に自分にとって必要なことなんだ」という確信だけはありました。最終的に、家族の全面的なサポートのおかげで、参加することができました。
ーー 自己認識クラスでは、どんなことが印象に残っていますか?
「自分の生き方や自分自身に、“本気”で向き合う時が、とうとう来た」──そんな感覚がありました。だから、自己認識クラスの受講を決めたときは、本当に緊張していたんですよ。
クラスの中で一番印象に残っているのは、これまでの人生を振り返るレポートを書いたことですね。気づいたら、かなりのページ数になっていたんですが、読み返してみると、「あれ?私、ケースは違うけど、同じことを繰り返してるよね」ってことに気づいたんです。
この時点では、「繰り返してるな、不思議だな」くらいの感覚だったんですけど、その後に進んだ「弥勒力クラス」で、その謎が少しずつ解けていくことになります。
縛られたくない。その奥にあるもの
ブッダスクールを知った当初は、実は「弥勒力クラス」だけを受講したかったんです。なんとなく、これからの世の中が大きく変わっていくような気がしていて。でも、今思い返すと「自己認識クラス」でしっかりと下地を作っておいたことは、本当に必要だったと思います。
「弥勒力クラス」で特に印象に残っているのは、つうりさんとのマンツーマンセッションですね。そのとき、つうりさんに「“あやちゃんは『解脱』がテーマですね”」と言われたんです。
最初は全然ピンと来なくて…。
でも次第に、「私がこれまでやってきたことは“逃避”だったんだな」と気づいたんです。
空想や創作の世界に没入したくて、外側に向けるエネルギーを必要最低限に抑えていたこと。
社会に出てから、一つの場所に腰を据えて働くことが苦手で、あえて派遣という形式を選び、さまざまな現場で“日替わり”のように働いていたこと──
それもすべて、「ここに縛られたくない」という気持ちからだったんですよね。
このクラスを受講したことで、「私はただ逃げていたんじゃなくて、“本質的な自由の探究”こそが、自分のテーマなんだ」と気づいたんです。それが、「解脱」ということなんだなと気づきましたね。そして、「その自由のために自分の力をどう使うか」を、本気で考えるきっかけになったと思います。
私のすべては、自由を探す軌跡
ーー あやちゃんは、理学療法士でありながら、絵画やアクセサリーづくりなど、幅広い創作活動をされていますよね。そうした活動が、今のビジョンとどうつながっているのか、ぜひ聞かせてください。
理学療法士の道に進んだきっかけは、母の影響です。うちの家系は、社会に馴染むのが苦手な人が多くて……例えるなら「学校で列に並べない人たち」って感じですね。私も、もれなくそのタイプで(笑)。そんな私を心配して、看護師だった母が勧めてくれたんです。
実際に医療現場で働いてみると、いわゆる“リハビリのやり方”がどうも自分には合わなくて。無理に身体を動かすことより、「自然に動きたくなる方法はないか」と思うようになり、音楽療法としてピアノを取り入れていました。
普通、理学療法士はそういうことをしないと思うんです。
やっぱり私、どこに行ってもちょっと“変”なんですよね(笑)。
かつてバレエピアニストの先生に師事していたこと、シュタイナー教育への関心、自然の中で音を探して曲を作っていた子ども時代……。それらの点が、数年前に出会った「オイリュトミー※」によって、少しずつ線となり、今の作曲や演奏活動につながっています。
※ルドルフ・シュタイナーが1912年に考案した運動芸術。言葉や音楽のリズムを身体で表現する手法。
絵を描きはじめたのは、夫の仕事でフランスに半年滞在していたときです。フランスはアートがとても身近で、まだ3歳にも満たない娘と、言葉を介さずに通じ合いたくて、一緒に絵を描くようになりました。それがきっかけで「リビング・アトリエ」と名づけ、親子で創作活動を続け、個展も開くようになりました。
アクセサリーづくりは、絵の具が余ってしまったことから始まりました。でも次第に、地球にある素材を使って、地球での体験の素晴らしさを作品を通して伝えたい──そう思うようになったんです。
……ずっと「地球にいるのは窮屈だな」と思っていたんですけどね(笑)。
「ここは私の本当の居場所じゃない」って、ずっと思いながら生きてきたんですけど……そうではないよなって(笑)
他にもいろいろな活動をしていますけど、すべては私の中で「本質的な自由の探究」というビジョンとつながっていると感じています。
地球はわたしの生きる場所
ーー さいごに。あやちゃんにとって、「ブッダスクール」とはどのような場所ですか?
ブッダスクールは、私にとって「自分と、自分の生きる世界へのまなざしを取り戻す場所」ですね。
きっと、子どもが生まれるまで、そしてブッダスクールに通うまで、世界は私にとって“観察の対象”であって、私が“生きる場所”ではなかったと思うんです。
地球で生きているふりはしていたけれど、本当には生きていなかったのかもしれません。
でも、辛かったり大変なこともありましたが、クラスの中でのさまざまなワークを通じて、見える世界に色彩が戻ってきて――
「私、本当にここにいるんだな。ずっと、ここにいたんだな」と感じられるようになりました。
鮫島 未央 さん
「出会いたかった『私』、歩みたかった『ビジョン』」
<鮫島 未央 さんプロフィール>
自己認識エッセイスト/ビジネスコーチ/執筆/講師業。ライティング・ライフ・プロジェクト主宰。
中央大学文学部教育学科卒。マーケティング職を経て独立後、コーチングを手がけるかたわら、「書くこと×自己認識」による変容プログラムを展開中。哲学・心理学・神秘学を探求し、“ありかた”としての幸せや豊かさを考えていくことをライフワークとしている。二児の母。
さめじまみおオフィシャルウェブサイト:
https://www.mio-amrita.com/
さめじまみおnote:
https://note.com/mio_amrita
鮫島未央さん(以下、未央さん)は、2018年に開催された「弥勒力ワークショップ」への参加をきっかけに、翌年開講した第1期「旧・自己認識クラス※」と「旧・弥勒力クラス※」に、サポーターとして関わってくださいました。
以来、立ち上げたばかりのブッダスクールに寄り添い続け、現在も公式メルマガのコラムを長くご担当いただいています。
その言葉で紡がれる世界観に魅了され、毎号楽しみにしている方もきっと多いはず。
スクールの歩みを静かに、けれど確かな力で支えてくれている、大切な存在です。
書くことを通じて、より深い自己認識を目指す「ライティング・ライフ・プロジェクト」を考案・主催されている未央さん。ビジネスコーチや執筆、講師業など、多彩な分野で活躍しながら、そのお仕事を通して「個性化」を体現されています。
受講から7年。
未央さんがどのような変容を遂げてこられたのか――受講前と現在のありようについて、じっくりとお話を伺いました。
※当時の「自己認識クラス」と「弥勒力クラス」は、現在のTotal Integration Courseの「自己統合セクション」と「弥勒力セクション」にあたります。
ずっと知りたかったことに、やっと出会えた
私は、2018年に開催された「弥勒力ワークショップ」に参加して、「これはすごいぞ…!」って感じたんですよね。
その後、すぐにつうりさんに「何かお手伝いできることがあれば、言ってください!」とアプローチしたことがきっかけで、第1期の「旧・自己認識クラス」と「旧・弥勒力クラス」のサポーターとして関わらせていただくことになったんです。
大学時代はシュタイナーを学んでいて、そのほかにもユング心理学を探求したり、松村潔先生から占星術の指導を受けながら「十牛図」を学んだりしていました。
そんな私がブッダスクールのテキストを読んだとき、「ああ、ずっと私が知りたかったことが書いてある…」って、本当に感激したのを覚えています。
それまでバラバラだった知識が、どのように関わり合っているのかがちゃんと書かれていて、点と点がつながって、腑に落ちたんですよね。
ひとりぼっちの空想と、ことばが支えてくれた日々
ーー未央さんが、学生時代からシュタイナーやユング心理学、占星術などを探求していた理由は何だったんですか?
そうですね。
ずっと、虚無感とか孤独感とか、そういう痛みと一緒に生きてる感じがあって。
「なんでこんなに苦しいんだろう?」「これが人生ってやつなのかな?」みたいな、そんな哲学的な問いを、自然と抱えながら生きてたように思います。
親の仕事の都合で、小学校・中学校と転校ばかりだったんですよね。それで、どこに行ってもいじめや無視をされたりして、「人とうまくやれないのは、自分のせいなんじゃないか」って、ずっと考えていたんです。
小学生の頃は、もうどうにもならないなら神頼みしかないって思ってて、当時流行っていた占い雑誌に載ってる「おまじない」をよく試してました。「仲良くなりたい子の顔をハートで囲むと仲良くなれる」みたいなことが書いてあったら、ほんとに真剣にやってみたりして。
現実では太刀打ちできないことを、見えない世界の力でどうにかしようとしてたんですよね。
そういう幼少期でした。
でも、成長するにつれて、「心理学や哲学っていう学問があるんだ」とか、「“気”っていう概念もあるんだ」って知って。そういう知識を、どんどん自分の中に取り込んでいったんです。
だから、シュタイナーやユングに出会ったのも、きっと自然な流れだったんだと思います。
ーー未央さんといえば、noteやブッダスクールのメルマガエッセイ、そして「ライティング・ライフ・プロジェクト」など、「書くこと」がひとつの軸になっていますよね。それはいつ頃からだったんですか?
小学校4年生のときの担任の先生が、日記を書く宿題を出してくれて。それがきっかけで、日記を書くのが習慣になっていきました。
最初は提出するために書いてたんですけど、だんだんと内容が自由になっていって、内省的なことや悩みを書くようになって。
そしたら先生が返事をくれたりして、そのやり取りがすごく心の支えになってたんですよね。
まるで「自己認識クラス」の課題にフィードバックをもらっているみたいな、そんなやりとりでした。
小学校を卒業してからも、日記はずっと書き続けていました。言えないこと、わかってもらえないだろうなって思うことは、とにかく全部そこに出していて。感情のヤリ場というか、吐き出し口みたいな存在だったのかもしれません。
親にも、当時の自分の辛さについて、話したことはなかったですね。むしろ、「今日も隣の○○ちゃんがすごく親切で、たくさんおしゃべりしたよ」みたいな、うまくいってる話しかしてなかったんです。
心配をかけたくなかったというより、たぶん、現実を自分で受け止めきれなくて、空想の話をしていたんだと思います。
でも、クラスでは孤立していたけれど、団地にはいろんな年齢の子がいて、野山を駆け回ったりもしていました。 あとは、物語を書いて朗読して録音したり、音楽を重ねて編集したり。そんなふうに、創造的な遊びもたくさんしてたんですよ。
どん底から見えた、もうひとつの扉
ーーその後の人生についても、すごく気になります。就職や結婚、出産といった節目では、どんな経験をされたんでしょうか?
いやもう、ブッダスクールに出会うまでは、一貫して人生がうまくいってる感覚は持てなかったですね(笑)。
就職してからは、マーケティングや企画の仕事に携わっていました。仕事は難しかったけど好きだったし、自分なりにバリバリやってたんですよね。
でも、結婚して、出産して……それまで築いてきたキャリアが、いったんゼロになっちゃって。
子どもを0歳児保育に入れて、早々に職場復帰したんですけど、戻った職場では、以前とはまったく違う仕事を任されることになって。
やりたい仕事はあるのに、子どもの世話もしなきゃいけない。夫は好きなように仕事をしていて、夫婦関係も悪くなって、育児ノイローゼっぽくなって…。
たぶん、あのときが私の人生のどん底だったと思います。
そのとき、初めて「今まで学んできた心理学や哲学が、何の役にも立たなかった」って思ったんですよね。
役に立ってたら、こんなに苦しまないはず。
私は、何か決定的に大事なことを、学び損ねたんだ。
そう、思ったんです。
それが、もう一度学び直そうと思ったきっかけで――「弥勒力ワークショップ」に出会ったのもその頃でした。
この世界は、最初から“さみしくなかった”
ーー「自己認識クラス」や「弥勒力クラス」を通して、ご自身のこれまでの人生に対する捉え方に、変化はありましたか?
いじめられたり、変な噂を立てられて嫌われる――当時の体験は、確かにとても傷つきましたね。
でもいっぽうで、率先していじめる側にいた子たちの“強さ”みたいなものに、どこか憧れもあって。
たとえ自分が傷つけられる側だったとしても、ヒエラルキーのトップ……っていうんですかね、そういう場所に巻き込まれることを、自分で選んでいたような気もするんです。
そして、昔の私は――すごく寂しい世界にいたなって、思うんです。もう、何もかもが寂しかった。
でも、どん底にいたからこそ、見えてくる扉とか、出会える場所がある。ブッダスクールも、まさにそうでした。そういう“どん底きっかけ”で開いていく場所って、あると思うんです。
今は、ほんとうに「寂しい」とは感じなくなりました。
きっと私は、「寂しくない世界」「悲しくない世界」を、ずっと見たかったんだと思います。
でも、ほんとうは――ずっと見ていたんですよね。それに気づけなかっただけで。
「寂しくなかったんだ」って、知りたかった。
ただ、それだけだったんです。
“貢献”ではなく、“表現”として生きていく
ーー未央さんのエッセイって、読んでいると、その対象への「愛おしさ」や「やさしさ」が伝わってくるんですよね。
私にとっての“愛”って、「世界や相手をそのまま見ようとする力」や、「自分の感情や感覚をそのまま扱う力」。
そして、それらに向き合い、少しでも磨こうとする気持ち――そういう向上心そのものが、私にとっての“愛のかたち”なんです。
「弥勒力クラス」の頃に見出していたビジョンは、ユングで言う“個性化の種”を見つけて、その種が開花していく様子を見届けたい、というものでした。
細かく言えば、生きづらさを感じている人が、少しでも生きやすくなるように――魂の視点からライフスタイルを綴る、という行動軸を持っていたんです。
でも、最近、そのビジョンが変わったんですよ。
今は、ただ――やさしくなりたいと願うようになったんです。
自分自身の苦しみも、目の前にいるひとの悲しみも、そっと照らして、やわらかく溶かす星のような存在になれたらって。
これまでは、自分の仕事や活動を通して、誰かの役に立つこと――つまり「貢献」という意味合いが強かったんですけど、
これからは、たとえ同じことをしていても、それはきっと「貢献」ではなく、「表現」としておこなっていくんだろうなって思っています。
そういう意味で、ブッダスクールは、私が出会いたかった「私」と、私が歩みたかった「ビジョン」を、うんと見せてくれるきっかけとなった場所だなぁって思ってますね
永島 衛 さん
「“遊ぶ”ことで、“働く”がラクになるなんて」
<永島 衛 さんプロフィール>
神奈川県在住の会社員。
週末はバイクや釣り、家庭菜園など、自然とともにある“遊び”に熱中し、人生を満喫している。
風や土の感触、潮の香りや波の音に五感をひらき、自然の中で遊び尽くすことが、何よりの喜び。
永島 衛さん(以下、マモさん)は、2019年のブッダスクール開講当初から、さまざまなクラスに参加し、学びを深めてきた方です。
現在は、大手精密機器メーカーの品質管理部門に勤務。会社の窓口として、お客様から寄せられるクレームに向き合い、解決に取り組むとともに、製品の改善にもつなげる役割を担っています。ブッダスクールのクラス内では、その責任の重さや葛藤について、率直にシェアしてくださる場面も多くありました。
バイクやアウトドアは、以前から親しんできた趣味のひとつ。けれど、「旧・自己統合クラス」「旧・弥勒力クラス」を経た頃から、それは単なる息抜きではなく、もっと深い意味を持ち始めたように思います。
SNSには、自然とともにある日々を切り取った写真が、ユーモアあふれるコメントとともに投稿されています。そのどれもが、私たちがいつしか忘れてしまった、自然の中で五感をフルに使う「遊び」の大切さについて、力強く問いかけてきます。
重い責任を背負い続け、苦しみを抱えていたマモさんですが、今ではその捉え方は大きく変わったそうです。
“遊ぶ”ことと“働く”こと――その二つをどう捉え直し、どう日々を生きているのか。
今回は、クラスでの気づきを通して変化していった、マモさんの「仕事」と「遊び」に対する認識について、お話をうかがいました。
※当時の「自己認識クラス」と「弥勒力クラス」は、現在のTotal Integration Courseの「自己統合セクション」と「弥勒力セクション」にあたります。
〜「安定」と「成長」を求めて〜親の背中から始まった仕事の道
ーー現在、サラリーマンとして長く品質管理のお仕事をされているマモさんですが、そのお仕事に就くまでの経緯について、ぜひ聞かせてください。
そうですね、やっぱり親の影響が大きいと思います。
父はもともと鉄鋼商社でサラリーマンをしていたんですが、途中で独立して、母と一緒に会社を立ち上げたんです。昔は本当に苦労していたようで、私は保育園の頃から、いわゆる“鍵っ子”として育ちました。夜遅くまで忙しく働く両親の姿を見て、「自分は安定した仕事に就こう」と思うようになったんです。サラリーマンとして、安心・安全・安定した生活が一番いいんじゃないかなって。
それと、家には黒板があって、父によく「“忍耐”と書け」と言われて、何度もその言葉を書かされた記憶があります。そういう家庭で育った影響も、やっぱり大きかったと思います。
それから、父方の祖母が、かなり育ちの良い家の出身だったこともあって、父からは「何でもよいから一番になれ」とよく言われてました。祖母も父も、“一番”という言葉が好きだったんですよね。だから、大学に入る頃には、「一流企業に入れば親も安心するかな」と思っていました。
就職してからは、当時流行していたワープロの設計を7年ほど担当していました。まあ、それなりに楽しくやっていたんですが、あるとき「品質管理に異動しろ」と言われて。そこからが、今の仕事の始まりですね。
その後、当時勤めていた会社の一部門が、今の会社に買収されて。その流れで、私も転属することになり、茨城から大阪へ行くことになりました。
ちょうどその頃、勤務先の近くに家を建てようと思って、土地を買って、建築会社にお金も払い、地鎮祭まで終えていたんです。それなのに異動が決まって、「どうすればいいの?」と。
でもまあ、サラリーマンですからね。行けと言われたら、行くしかない。結局、それまで貯めてきた貯金は、ほとんど失ってしまいました。あのときは、本当に家族だけが心の支えでしたね。
“責任感”の先に、立ち止まった心
ーーマモさんは、スクールのクラスの中でも、お仕事のつらさについて率直にシェアしてくださっていましたよね。あらためて、そのとき感じていたことや背景について、もう少し詳しく教えてもらえませんか?
はい、品質管理っていう業務をやっていて、今でも続けているんですが……やっぱりクレームが本当につらくて。お客様の怒りを直接受けることが多いんです。もちろん会社の製品に対しての声なんですけど、どうしても自分ごとのように受け取ってしまうんですよね。
お客様が困っている状況を見ると、単純に「申し訳ないな」だけじゃなくて、自分自身が否定されているような気持ちになってしまうというか。製品に関わる部署に改善を促すのが仕事ではあるんですけど、それを繰り返していくうちに、どんどん「自分が悪い」「自分がダメなんじゃないか」っていう感覚が強くなってきて……。
そのうち、「自分はこのまま仕事を続けていていいのかな」「生きていて意味あるのかな」みたいな気持ちになってしまって。会社を辞めようと思ったんですよね。
でも、その前に――まずは「自分って何者なんだろう?」という問いに向き合うことのほうが、大事なんじゃないかと感じたんです。
本当は何がやりたいのか、どういう人間なのか、何をしていると心から喜べるのか――そういうことを、ちゃんと理解してから次の一歩を考えたい。そんな思いが芽生えてきたんですよね。
そして、実はその当時、アカシックリーディングやスピリチュアルなこともすでに学んでいて、上位クラスに進む選択肢もありました。
でも正直、“一般には見えないものが見える”とか“感じる”といった感覚は自分にはまったくなくて。まわりにはそういう感覚を自然に使いこなす人たちも多く、どこかで劣等感のようなものを抱いていたんだと思います。
そういった気持ちもあって、「まずは自分の土台を整えたいな」と思って、「自己統合クラス」と「弥勒力クラス」に進むことを決めたんです。
閉じ込めていた願いが動き出す
ーーお仕事のつらさや、「働く」ということへの思いに、クラスの受講を通して何か変化はありましたか?
そうですね。
「嫌いなことにこそ、自分の成長があるんじゃないか」っていう、いわゆる“期待と我慢”が自分の中にあったんだなと、あらためて自覚しましたよね。
世の中には、「好きなことだけをやって人生を楽しもう」っていうスピ系の本もたくさんあるんですけど、私は逆に、「嫌いなことをやっているほうが、自分はもっと成長できるんじゃないか」という考えでした。
だからなのかもしれませんが、私にとっての仕事って、それ自体が“目的”になっていたんですよね。
地位を上げて、給料を増やして、自分をもっと成長させて……それを続けていけば、最終的に、何かすごい人になれるんじゃないかって、ずっと思ってたんです。
それがね、もう、どうでもよくなったんです。
そして、もうひとつ大きかったのは、「遊び」に対する認識の変化ですね。
今までは、遊びってただのストレス発散というか、“逃避”的な意味合いが強かったと思うんです。「バイクに乗って気分転換できればいいか」くらいの感覚で。
でも、実際にバイクに乗っているときも、仕事のことが頭から離れなかったり、「明日また行くのか……」なんて考えていたりして。結局、ちゃんと遊べていなかったんですよね。どこか中途半端で。
でも、それには理由があって。
「好きなこと」や「遊び」を人生の主軸にすることに、強い抵抗があったんです。許されないことだと思っていたから。
だからこそ、クラスの学びの中で、そこに“許可”を出せたことは本当に大きかったですね。
サラリーマンなので、相変わらず土日祝日しか自由に使える時間はないんですけど、その限られた時間で、集中して思いっきり遊ぶようになりました。もう、適当じゃなくて、真剣に。
そうやって「遊び」に意識が向くようになったことで、自分の中での「働く」と「遊ぶ」の比重が大きく変わっていったんです。
それまでは、仕事って本当に苦しい“目的”だったんですけど、次第に、ちょっとめんどくさいだけの“手段”に変わっていったという感じですね。
もちろん、お客様をおろそかにすることはできないので、それはそれでちゃんとやっていますし、会社への貢献も意識しています。
でも、以前のように「ものすごい成果を上げなきゃ」とか「もっと上に行かなきゃ」という思いは、なくなりました。
戻ってきたのは、“夢中”だったあの時間
ーーバイクや釣り、畑など、自然との関わりが中心なのが、マモさんの遊びの特徴ですよね。
そうですね。
小さい頃から、いわゆる“鍵っ子”として育ちました。保育園から帰ってきても家には誰もいなくて、夕方まで学童保育で過ごして、母が迎えに来て、そのまま寝る……そんな日々が続いていたんです。
首から鍵をぶら下げて、外で遊ぶのが大好きでした。家に誰もいないから、自然と友達と外にいる時間が長くなって。あるときなんて、遊びに夢中になりすぎて帰りが遅くなり、親に「行方不明になって警察沙汰になった」と言われたこともありました(笑)。それくらい、外の世界に夢中だったんですよね。
でも、不思議と寂しさは感じなかったんです。自然の中で遊んでいるときは、むしろ心が落ち着いていて。
親と過ごす時間も極端に短かったぶん、自然は親代わりのような存在で、自分らしくいられる場所だった気がします。
そして今、大人になった私は、そのつながりをあらためて深めているのかもしれませんね。
それに加えて、私はやっぱり、「感動したい」「心を動かしたい」って、いつも思ってるんです。
部屋でゲームをやっていた時期もあったんですけど、正直、まったく面白くなくて。
やっぱり、見て、触って、匂いを感じて――五感をフルに使って体験することに、私は一番の喜びを感じるんですよね。
そういう意味でも、自然は私を感動させてくれますね。
弥勒力クラスで掲げたビジョンも、「感動、共感、人生を遊び尽くせ!」。
この言葉には、まさに自分が大事にしたいこと全部が詰まってる気がしていて――。
これからも真剣に遊び続けようと思っています。
すぐには変わらない。でも確かに変わっていく
ーー最後に、マモさんにとってブッダスクールとは、どのような場所ですか?
私にとってスクールは、学ぶ場所というより「遊びの場」なんですよね。
一生懸命ではあるんですけど、感覚としては“真剣に遊んでいる”感じです。
以前は、「学習」とか「勉強」とか、いわゆる“頑張らなきゃいけないもの”だと思っていたんですけど、つうりさんからのさまざまな教えを受けたり、自分で考えたり、仲間と話したり――そういう全部が、今では私にとって「遊び」なんだろうなって思っています。
そして、自分が「許されている」と感じられる場所でもあります。
ゆるゆるしていられる、そんな感覚ですね。
このスクールで学ぶことで、大きな認識の変化があったのは確かです。
「自分は何者なのか」に気づけたことも、そのひとつです。
とはいえ、受講したからといって、すぐに何かがガラッと変わるわけでもないんですよね。その後の生活の中でも、また同じような壁にぶつかることはある。
でも、そういうときにこそ、「ここで学んだことが生きてくる」って実感します。
どんな状況にあっても、「揺れない自分」に変化した感覚があります。
あとは、「今起きていることは、すべて必然なんだ」と理解できるようになったこと。
それに、自分の本当の望みを整理できたことも、大きな収穫でした。
やっぱり、やらないよりは、やったほうがいい。自分を知ったほうがいい。
それが、これからの変化の時代を生きるうえで、大事なポイントになるんじゃないかなと実感しています。
吉村 練太郎 さん
「人間、こんなもんじゃない」
<吉村 練太郎 さんプロフィール>
ジュエリースタイリスト/株式会社MP 代表取締役社長
大阪府在住。人とのご縁を大切にし、“つながり”の創出に取り組んでいる。
ジュエリーメーカーとして会社を立ち上げ、“数秘×ジュエリー”など、一人ひとりの個性や魅力を引き出すジュエリーを手がけている。現在ミラノオリンピックを目指している、フィギュアスケートの坂本花織選手の試合用ピアスなども担当。
ジュエリーの枠を超えて、人の個性を仕事やライフワークへとつなげる活動にも力を注ぎ、たった今も、まるで“フーテンの寅さん”のように、日本全国そして海外にも足を運び、喜びの場を生み出し続けている。
吉村 練太郎さん(以下、れんちゃん)は、2020年に「弥勒力クラス」を受講し、翌年には「自己統合クラス」も受講。その後、再び「弥勒力クラス」を再受講し、両クラスのサポーターとしても積極的に関わるなど、「Total Integration Course」をこよなく愛する仲間のひとりです。
れんちゃんはまた、「人の個性化を応援すること」や「人とのつながりを深める」ための場づくりを、心から楽しんでいる人でもあります。仲間内の集まりや、個性化の表現のためのイベントを主催するのはもちろん、全国各地のコミュニティにも積極的に参加し、「会いたい」と思った人がいれば、国内外を問わず自ら会いに行く――そんな軽やかなフットワークの持ち主です。
ブッダスクールには、自分自身を深く知るために参加される方はもちろん、「人に関わること」を生きがいやお仕事としている方も多くいらっしゃいます。
今回ご紹介するれんちゃんの体験には、「人をサポートすること」に真摯に向き合い続けてきた彼だからこそ辿り着いた、深い気づきがあります。
クラスでの自己統合のプロセスを経て、それまでの“人へのサポート”が、無意識のうちに何を表現していたのかに気づき、大きな衝撃を受けたという彼のエピソードは、「誰かを支える」という行為の本質、そして「自己統合」とは何かを、私たちに静かに問いかけてきます。
彼の気づきと変化の軌跡を、どうぞご覧ください。
※当時の「自己認識クラス」と「弥勒力クラス」は、現在のTotal Integration Courseの「自己統合セクション」と「弥勒力セクション」にあたります。
人間、こんなもんじゃない――その思いが、原点だった。
ーーれんちゃんが最初にブッダスクールで受講したのは、「弥勒力クラス」でしたよね。そのきっかけや経緯について、改めて聞かせてください。
当時は、まさにコロナ禍の真っ只中だったんだけど、もう無性に「みんな!これはチャンスだぞ!」って思ったんだよね。
自分の好きなことをやれるタイミングだぞって。
でも、それが友人たちにはなかなか伝わらなくて……あの頃が、一番孤独を感じていた時期だったんです。
僕は、物心ついた頃からずっと「人間、こんなもんじゃない」って思っていたんです。
社会の中で生きていくために、みんな本当の自分をどんどん押し殺して、変えていってしまうように見えて、その姿を見ることが、本当に苦しくて。
「子どもの頃みたいに、感じたまま、好きなことをやってるだけでいいのに」って、ずっと思ってた。
勉強の成績で自分を決めつけられて、しかも先生たちもまったく楽しそうじゃなくて。
でも、近所のうどん屋さんのオッチャンは、すごく楽しそうに働いてたんだよね。自分のペースで店をやって、人と笑って、あったかくて自由な空気がそこにあった。
なんで先生は、ああいう生き方があるって教えてくれなかったんだろう?って思った。
もしかして、人生ってこんなふうに終わっちゃうの?って。
だから学校もつまらなくて、半分以上行ってなかったよ。
自分を押し殺したほうが、現実的にはうまくいくのかもしれない。でも、友達の話を聞いていると、「会社がしんどい」とか「親との関係が辛い」とか、みんな苦しんでいて。
それを見るのが、本当にしんどかった。
自分のやりたいようにやった方が、絶対に幸せになる。
それが正しいことだって証明したくて、必死に頑張ってきたけど、周りには伝わらなくて。
僕の力には、限界があるんだなって感じてたんです。
そして今思うと、僕は嫌なことすべてから逃げまくってた人生でもあったけど(笑)。
だから、「弥勒力クラス」の存在を知ったときに、「これだ!」って思ったんです。
「これからは自分の表現が仕事となる時代」とか、「なれる最高の人生を生きる」ということに、強く共鳴して。
ここに行けば、それを人に“伝える力”が手に入るんじゃないか――そう思ったんです。
ーーれんちゃんは、イベントを企画したり、いろんな人から相談を受けたり、あちこちのコミュニティにも顔を出していて。ほんとうに、人のサポートや、つながりを生み出すことが好きなんだなって感じます。
れんちゃん:それはほんとうに今でも好きなことだけど、ブッダスクールで学ぶ中で、大きく覆されたよね。
もう、とんでもない衝撃だった。
サポートと思っていたものの正体
僕が8歳の頃に、突然、母が家を出て行ったんだよね。
その日、大阪駅のレストランで、妹も含めて家族4人で食事をしたあと、母だけが一緒に家に帰らなくて、エスカレーターを一人で上がっていく。
そのとき、妹はその場で大きな声で泣き出したんです。そして、無意識に僕は「泣くな!」と叫んだ。
その瞬間、父が僕と妹の手をギュッと強く握ってくれて――僕たちを守っていこうっていう父の気持ちが伝わってきて。
これからどうなるかわからない不安はあったけど、「泣いてはいけない」と思ったんです。
数日後、母から一本の電話がかかってきて、「もう家には帰らない」と告げられて――そこで全部、理解したんだよね。
たぶん僕は、そのときから「泣かない」って決めたんだと思う。
どんなときも笑って生きていこうって。父にも母にも事情があるんだから、それを応援しようって。
それに、「お母ちゃんがいないから可哀想だね」って、人から決めつけられたり、哀れまれたりするのが本当に嫌で、必死にそう見られないようにしてきたんだよね。
そして、それがこのブッダスクールの「自己統合クラス」の中で、“アクティブ・イマジネーション”という手法を使って、自分の影(シャドウ)と向き合う課題があったんだけど――あのとき、世界がひっくり返ったんです。
僕は、母と別れたときに、「泣かない自分」「弱音を吐かない自分」「人を応援するヒーロー」っていう仮面をつけたんだ、って気づいた。
でも、ただ仮面に気づいただけじゃなくて、自分が応援したいと思っていた人たちのことを、どこかで哀れんでいたんだ、ってことにも気づいてしまって。
自分が“ヒーロー”で居続けるために、相手を“悲劇のヒロイン”にしてしまっていた。
自分でも気づかないまま、そうやって人と関わってた。
僕は、学校や社会のヒエラルキーが大嫌いだったのに、自分もそれを作っていたんだって――そのことに気づいたとき、これまでの自分が情けなくて、恥ずかしくて。
「オマエは何様なんだよ!」って、自分に心の底から腹が立った。
そして、これまで自分が応援してきた人たちに、心から謝りたいって思ってね。
すぐに妹にも会いに行って、泣きながら謝ったんです。
さらに言えば、人はみんな、生きる力を持っているのに――僕はそれを信頼できずに、「僕が助けなければ」って思い込んでいた。
そのことが、間違いだったんだって、心の底から理解したんです。
自分は、「すべて」
ーーそんなダイナミックな統合のプロセスを経て、今のれんちゃんは、ほんとうに軽やかに見えますね。。
では、人との関わり方も大きく変わったのでしょうか?
そうね。今はほんとうに毎日が楽しいし、以前のような目で人を見る自分は、きれいさっぱりいなくなったよね。
もちろん、今でも自分の体験を人に伝えたり、人の人生のプロセスについて話を聞かせてもらうのは大好きだし、その人の決断を応援しているけれど――その原動力が、まったく違うんです。
「弥勒力クラス」で見つけた僕のビジョンは、「すべての愛(つながり)を思い出す」
人と出会って、話を聞くたびに、「僕が表せないものを、その人が表してくれているんだ」って感じるようになった。
自分というのは、「自分ひとり」だけを指すんじゃなくてーー自分とは『すべて』なんだ。
そういう感覚を、ブッダスクールを通じて理解することができたんです。
そして、もう一つ大きな機会が、このスクールで学ぶ中であったんだけど。
それは、8歳で別れたきりの母と再会できたこと。
今思うと、母と別れたあのときに、僕の中から「すべてが自分」という世界が失われたんじゃないかって。
それが、母との再会によって、その世界を取り戻したような……そんな感覚だったんだよね。
つまり、母との再会も、人と出会って話を聞くことも、「すべてのつながりを思い出す。すべての愛を思い出す」ための、大切な営みなんだって思えるようになったんです。
つながって、はじまっていく
ーー最後に、れんちゃんにとってブッダスクールとはどのような場所ですか?
「自己統合クラス」や「弥勒力クラス」に何度も参加して感じたのは、きっとみんな、それぞれのターニングポイントを迎えていたんじゃないかな、っていうこと。
何かを手放したくて、そして、ずっと前から自分の中にあったものを思い出して――もう、シンプルに「ほんとうの自分として生きていきたい」って願っていた人たちばかりだった気がするんだよね。
でも、自分で背負ってしまった荷物を、自分の力だけで下ろすのって、やっぱり簡単じゃない。
だからこそ、それを一緒に下ろすのを手伝ってくれる、つうりさんやサポーターさん、仲間たちの存在は、本当に大きいと思う。
僕の妻は看護師として働いていたんだけど、「ターミナルケア」の“ターミナル”って、一般的には「終着点」や「終末」という意味で使われているよね。
でも実は、「分岐点」という意味もあるんだよって、教えてくれたことがあってね。
バスターミナルとかをイメージするとわかるけど、そこは終点であり、あらたな出発点であり、おわりとはじまり、いろんな人生が重なり、分岐し循環していく。
ブッダスクールは、僕にとってまさに「ターミナル・スクール」って感じがするんです。
過去も未来も見渡せる。
自分の中で切り離してきたものが、少しずつ戻ってきて、ひとつに重なっていく。
バラバラだった自分がつながって、新しい始まりが生まれていく――そんな場所だと思います。