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良い、というジャッジについて

ジャッジ(=裁き)を手放す、ということの本質は

 

「善悪を瞬時に行う人間としての特性に、意識的であること」。

 

つまり

 

自分という奴は、善悪を一瞬で行うってことを、ちゃんと自覚していろよ!

 

ということ。

 

このジャッジしている自分に「意識的であること」「自覚していること」というポイントがすごく大切。

 

人間である私たちは、瞬時に現実を識別し続け、肉体を保つために自分にとっての益、不益をカテゴライズする生き物です。

 

そして群れのなかで、誰が自分にとってよきものであり、危害をおよぼすのか予想し続けます。

 

もしその働きそのものを手放そうとするなら、山にこもって人と会わない暮らしをする以外にありません。

 

では古来からの賢人たちがつたえる、ジャッジ・裁きを手放すということは、とても難しく、現実社会のなかでは達成不可能だということでしょうか?

 

いいえ。違います。

 

ジャッジをしないということの本質は

 

「ああ。裁いているな」と気がつくこと

 

あるいは

 

人も自分も基本的に裁くものなのだ、いまこの瞬間にも自分という個体は、善悪をつけようとしているのだ、

 

ということにはっきりと自覚しているということ

 

です。

 

そうすることによって、ジャッジに関して、まったく意識的でない状態から、

 

ジャッジをしていることを知っている、というひとつ上の視点に立つことができます。

 

これがジャッジをしないということの本質です。

 

つまりジャッジそのものを人間としてのあなたから排除する、ということではなく、

 

ジャッジをしている自分に気がついていることによって、

 

ジャッジそのものに巻き込まれることが減ってくる

 

ということです。

 

 

一見、回りくどく書いているようですが、

 

ここのところをわかっていないと、ジャッジをしないということがただの概念でおわってしまいます。

 

たとえばジャッジをそのものをまったくしてはいけないのだ、ということを自分に課すとします。

 

そうすると、次々にやってくる現実に圧倒されて、ジャッジをしないなんて、無理!という感覚に陥るか、

 

自分にとって不利益な振る舞いをする人を「悪い人だと思わないようにする」といった思考を自分に当てはめるか、

 

などの反応をするようになります。

 

特に私が言いたいのは、この後者の部分です。

 

自分にとって不利益な振る舞いをする人を悪い人だと思わないようにする=ジャッジをしない

 

ということなのだという風潮が現代に広がるスピリチュアリティのなかで一般的になりつつあるように私は感じますが…。

 

これは大きな勘違いです。

 

本来的に、善悪というものは、この世界には存在しないのです。

 

宇宙がただ爆発し、自分自身を拡大させていくときに目的をもたないように。

 

火山が噴火するときに、ただ噴火するにように。

 

そこには善悪は存在していません。

 

しかし個体しての意識を持つとき、私たちはそこに自らを保ち、生き抜いていくというために、益、不益に基づいた善悪を持つのです。

 

何言いたいかというと…。

 

悪を裁かない、という態度は悪を悪と認識している時点で、すでに裁いているよ~!ってことです。

 

そしてこういった態度をとる場合に、さらに無自覚なのは、

 

善い、ということもジャッジである

 

ということ。

 

そうです。

 

よいこと、好ましいこと、ワクワクすること

 

それらは自分にとっての益を感じている、ということにすぎず、すでにこのなかに自分を中心にした善悪の判断が含まれているのです。

 

なので、私はスク-ルやセッションのなかで、人を悪くおもう心を排除しようとしている人に、

 

「善いもジャッジなんですよ。」

 

と伝えます。

 

 

 

そう。

 

悪だけがジャッジなのではありません。

 

善悪の判断そのものがジャッジなのです。

 

悪のジャッジは気がつきやすいものですが、

 

善のジャッジには気がつきにくいものです。

 

空気のように、善のジャッジは私たちを取り囲んでいます。

 

不益を排除しようとする働きは、私たちとって当たり前なのですが、

 

益を排除しようとは、ふつうはしないもの。

 

でもね。

 

しつこいようですが、ジャッジとは「善悪の判断」なのです。

 

その点では、善も悪も同じなのです。

 

なので…!

 

無理やりに「自分は裁きを捨てた!」なんて、かまえる必要はないのです。

 

そうか…。人間として、自分は善悪をもっているな、たしかにそうなんだな、としっかりと自覚していることの方がずっと大切なのです。

 

 

 

 

結論。

 

ジャッジをしない・裁かない、を生活レベルでやるときに大切なこと。

 

ジャッジをしているんだな、という自分に気がつくことがなにより大切。

 

そしていくら裁きが出てきたとしても、

 

まだ自分はジャッジを手放していない!なんてあせらなくて大丈夫。

 

ああ。人間としていま必死に自分を守るためにジャッジをしているんだな…と気がついていること。

 

そうすることで、ジャッジそのものに巻き込まれる感覚が楽になり、自分に優しくなれます。

 

それでいいのです。

 

 

余談。

 

もうひとつのジャッジをしないということの本質は、意識レベルを下げること、です。

たとえばリラックスしているときには、小さなことが気にならなくなり、良い悪いがどうでもよくなるものです。

その延長線上で、瞑想やワ-クによって、意識レベルを下げる訓練が出来ているなら、日常のなかでどんな場面でも、す-っと意識を下げ、その状態を維持することが可能です。

そのことによって、目の前で起こる肉体レベルの損得によるジャッジから、瞬時に非肉体レベルのノンジャッジの意識へと移行させることが可能です。

ただしこれも限界があります。私たちはどこまでいっても、人間です。

ときには、裁かない・関わらない態度よりも、どこまでも感情的になり、どこまでもその事物の内側に入り込んで迷うことの方がずっと人間らしいのです。

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