自分を傷つけることができるのは自分自身だけ
「自分を傷つけることができるのは自分自身だけ」
という仏教のマントラを私は大切に扱っている。
これは人間関係のマントラだ。
誰かがあなたを傷つけるような言動をしたとしよう。
その言動にあなたは傷ついているかもしれない。
けれどこう考えてみよう。
人は誰も自分の思うことを、自分の正しさからただただ発しているだけにすぎず、あなたを傷つけたいと思っているわけではないのかもしれない、と。
その意味では、外側でどんなに厳しい言葉を投げかけられても、もしあなたが「傷つけられた」と思わない限り、心に傷はつかない。
魂は自らの選択権を持っているからだ。
それは「傷つかない方が良い」という話とは違う。
人は誰しも傷ついて、その傷を癒やし、ひとつひとつ進んでいく。
傷を負い、また回復していくプロセスを持つことなしに人は成熟することはできない。
だからまったく自分は傷を持っていない、という人は、ひょっとしたら異常なまでの抑圧を自分に課しているのかもしれない。
ここで言いたいことは、たったひとつ。
それは「すべてはあなたの内側にある」ということだ。
誰かが放った酷い言葉が心に残り、そして直接誰かに責められることもあるかもしれない。
ただもしあなたが自分自身を生きようと思った時には、どうか思い出してほしい。
「自分を傷つけることができるのは自分自身だけ」
自分の人生を誰かに委ねてしまう時、誰かに傷つけられたから、という信念を私たちは所有してそこから動かなくなってしまう。
けれどあなたがもしその場所から、新しく動き出したいとしたら、このマントラをもって出発してほしい。
「自分を傷つけることができるのは自分自身だけ」
このマントラのほんとうの意味を理解して、このマントラと共にある人の道は、ある意味険しい。もう人生を誰のせいにもできないからだ。
けれど、同時にその道は美しい。
誰一人いない秋の早朝の森に光が差し込み、燃える紅葉から煙が立ち上るように。その光はあなたの誇りであり、立ち上る水蒸気は心の癒やしそのものだ。
もう一度繰り返そう。
「自分を傷つけることができるのは自分自身だけ」
このマントラを唱えるとき。はるか昔にこの道を歩んだマスターたちが、隣を歩んでくれることを私は知っている。
そしてマスターたちは今日も何も言わず、ただただ寄り添って歩いてくれているのだ。
メルマガ「ブッダスクール通信」より
補足
このマントラの話をすると、「ではトラウマや幼少期の虐待なども自分で自分を傷つけると決めたから、自分はそういう体験をしたのでしょうか?だからこそいまもその影響が残っているのでしょうか?」という質問を受けることがありますので、補足です。
答えは「違います」。
トラウマや幼少期の虐待とは、選択権があるものではありません。
また今日では、トラウマとは精神アプローチの治療ではなく、身体アプローチでの治療が最も効果的であることが研究の結果、分析されています。つまりそれは「捉え方や視点が変われば治癒する」というものではなく(もちろんある程度効果はありますが)、ある観点では身体の傷と同じように扱っていく必要がある、ということです。
だからこそ私は、トラウマ・虐待とは、精神論やスピリチュアルな領域だけでなんとかしようとせずに、専門家のもとへ足を直接運ぶことを勧めています。
そのためトラウマ・幼少期の虐待などはここでいう「自分で傷つけた」には直接当てはまらない、と言わせてください。
その上でもし、トラウマ・幼少期の虐待の体験が、大人になった今でも心に残っているという場合。
その体験をそのままにしておくのか、それとも癒していこうというプロセスへ自分から一歩進むのか、という決断の場面で、今回の「自分を傷つけることができるのは自分だけ」というマントラは役立つのではないか、と私は考えています。
トラウマや幼少期の虐待とは、本当に根深く、とてつもない影響力を人生にもたらすものです。
そして何かを始めようとおもったときに、その影響に足をからめとられ、動けなくなってしまうこともあります。
そうなることそのものが悪いわけではけっしてありません。ある意味では当たり前のことです。
しかしふとあるとき。このマントラがあなたのなかで繰り返されるなら、こう思えるかもしれません。
自分の内側で抱え込むだけではなくて、助けを出しても良いのだ、と。
そして自分だけで抱えすぎることもまた、自分を傷つけることになるのかもしれない、と。
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