ワクチンを巡る分断をどのように統合できるかーワールドワークによるエッセンスと生命体の自覚ー
ワクチンを巡る分断をどのように統合できるか
ーワールドワークによるエッセンスと生命体の自覚ー
先週の週末、自己統合クラスの最終講義のなかで、世界の分断を取り扱う「ワールドワーク」を行いました。
ワールドワークとは、その名の通り、世界そのものとワークをする、ということを表しています。
またワールドワークとは、環境・世界として表れている合意現実の諸問題を取り上げ、ディベ-トやロールプレイを用い、深め、その背後にあるエッセンスを見出すという方法です。
このワークの創始者であるアーノルドミンデルは、紛争が起こっているその真っ只中に単身で、飛び込んでいったといわれています。
弾丸が飛び交い、民衆が逃げ惑うその場で、何が戦いを引き起こしているのかを見出すため、民衆と兵士、あるいは主義がぶつかり合う人たちを集め、激論を交わさせそして本音をぶつけ合わせます。
戦争の最中なので、私が正しい、お前らが憎い、息子を殺したお前らをいますぐ殺すといった、意見が飛び出し、そして何のために戦っているのかという叫びが怒号と共に解き放たれるといいます。
そしてまたある程度、互いの意見が吐き出されると「大切な人を守るため」といったような、互いに似たものを見出し、双方が歩み寄り、やがて争いの中心にあるものから、ここで見出されようとしている本質が見えてくるのです。
このワールドワークが、通常のディベートとは違う点は、最終的にどちらの意見が勝つのかを判別するために行うのではなく、分断にみえた対立した意見は、元はどのような感情から生み出されたものであり、そして違いが目指しているものは、なんなのかというエッセンスを見出していく、という点にあります。
つまりワールドワークでは、物事の正邪ではなく、異なるものの統合を図ることに目的があります。
このワークは、これまでもスクールで行われてきましたが、今回は参加者の最も強く関心が集まっている部分ということで、参加者の意見により「コロナワクチンを打つか、打たないか」というテーマにて行われました。
現在、日本ではデルタ株の変異とその威力のために、ワクチン接種を巡り、個々人の分断が高くなっている時期。そしてまた打つ、打たないの議論は、科学・経済・心理・国交・健康・民族などのあらゆる面に広がり、これまでなあなあにされていた、様々なものを浮き彫りしている真っ最中です。
ワールドワークではロールプレイを用いるために、打つことを推進する派、打たないことを主張する派の対立にわけ、それぞれの役割にまず入り、ワークがスタートします。
役割は、参加者自身が考えますが、逼迫している現状だけに、非常にリアリティがある役があらわれました。
・自然の治癒力と抗体力を信じ、接種に反対する人
・厚生省として国全体の安全のために接種を勧める人
・表現者としての自由を信じ、接種に反対する人
・家族や地域の同調圧力に応じ、自らも接種を行い、抵抗を持ちながらも、接種を受け、かつ人にも勧める人
など、集合意識のなかでおよそ存在するであろうステレオタイプのものから、その人個人の社会的役割と重なるものまでが役割として集いました。
そして激論が交わされていきます。
通常、このような議論の場は、日本人では苦手とする人が多く、自己主張ではなく、日和見主義に走ってしまう人もおおいのですが、今回のテーマは無関心ではいられない問題を扱ったために、アクティブな言葉の応酬が続きます。
テレビ、ネット上や、地域社会で議論されているであろう、多くの問題が飛び交います。
・ワクチンの有効性と危険性に疑問がある
・とはいえ、経済を動かさなければ、国や地域がどうにもならないので、ワクチンは打つべきではないか
・経済の問題ではなく、人権の問題にかかわってくる
・人権を尊重するからこそ、ワクチンは任意となっており、強制ではない
・まるでワクチンを推進する言動は、戦争時代のように感じる
・結局は一部の特権階級のための利権で世界は回っており、大衆は洗脳され、思考力を奪われ、コントロールされていく。その現状に立ち向かわなければならない
・情報がすべて公開され、何も強制しているわけではない。洗脳とはまったく異なる。
・情報が利権のために隠蔽されていることが、不信感につながる
・何も隠蔽はされていない。可能な限り、公開している。公開できないものに関しても決して隠蔽ではない。時間と人手が足りないだけだ。
・有用な治療薬が開発されていることは証明されつつあるにもかかわらず、アメリカとの関係性のなかで、揉み消されていく現状が恐ろしい
・全勢力を持って、コロナに立ち向かった結果、ベストではないが、ワクチンという手段を提示している。
・結局、政治体勢による問題ではないか。自助ではなく、公助が圧倒的に足りない。
・安全が証明されないものを、体に打つということは絶対に嫌だ。体に異物を入れたくない。私は自然免疫で乗り切るから、ほうっておいてほしい。
ワークは4時間半に及んだために、もちろんすべてをここには書くことはできません。
私たちは普段、自分の意見を強く主張するということは、誰かを傷つけるのではないかという恐れをもっています。
しかしこのワールドワークでは、特定の役割を通して主張を戦わせるために、集合意識の現れがその個人の意見として現れてきます。
そのために、まるで日本の集合意識そのものが互いに主張を交わしているかのような光景が展開されていきます。
そして現象面に根差した意見がある程度交わされると、自ずと互いの本音が感情と共に溢れ出してきます。
・支えてきたけど、もう限界だ。
・誰かに自分の自由を奪われることが嫌だ。
・自由な表現の場がない。
・好き勝手な振る舞いで、迷惑をかけることが許せない。
・「まわりにあわせろ」という空気が怖い
・家族を守りたい。ただそれだけ。
これはワールドワークの特徴です。
ある程度、現象面の役割を表現すると、その奥にある集合意識として現れようとしている隠された感情や、表立ってはいうことのできない気持ちがでてくるのです。
今回のワールドワークでは、コロナやワクチンの有無を巡り、それぞれの日常のなかで、抑圧された感情や、表現されることのない言葉が、それこそ「たっぷりと」たまっているだけに、それぞれがこの本音を吐き出していくプロセスは非常に濃厚なエネルギーであり、時には、重くのしかかり、また時には、軽く、そのとおりだとうなづかせるものでした。
前述のように、ワールドワークではただ単に議論を交わすだけではなく、最終的に互いの意見が集約され、分断を統合する「エッセンス」が見出されることが目的です。
ワールドワークでのエッセンスとは、単純に多数決、あるいは頭で考えた結論ではありません。
創始者のミンデルは、「ワールドワークとはメソッドであり、アートである。なぜなら人には感情があり、感情は思考ではとりあつかうことができないから」と言います。
そのため、ファシリテーターはワールドワークによって紡ぎ出されるプロセス(過程)に寄り添い、結論ではなく、どんな「場の力」がそこを支配し、また何が生み出されようとしているのかに開かれている必要があります。
緊迫した議論が続く中、ある参加者が言いました。
「苦しい。すべてが苦しい。役割がとても苦しい。この役割では何も発言できない」
と。
そして私は彼女に、「ではどんな役割ならあなたが感じていることを表現できますか?ただの女性?それともただの人間?」と聞きました。
そうしたら彼女は
「ただの生命体でいいです。それなら表現できる」と言いました。
「では、ただの生命体になってください」と私は伝えました。
すると彼女は何かからか解き放たれたような表情をうかべこういいました。
「すべての人には向かっていく方向がある。ほんとうは自分が向かう方向を知っている。その信頼がいま見える。なぜなら私の目の前に映るすべての人は生命体だから」
そして続けてこう言いました。
「私はいますごく自由です」
彼女から、この言葉とエネルギーが放たれたとき、私は何かとても深いものに触れた感覚がしました。そして参加者全体にその感覚が共有されていることがわかりました。
そして打つ派・打たない派に聞いていくと、「とても大きな言葉とエネルギーを感じています。心がとても静かになりました」とそれぞれが答えました
ワールドワークでは、「最も深い心の部分にタッチしたとき、それがエッセンスとなる」という前提があります。この後も、言葉選びやそれぞれのニュアンスを巡ってワークそのものは続きしました。
しかし
「すべての人には向かっていく方向がある。ほんとうは自分が向かう方向を知っている。その信頼がいま見える。なぜなら私の目の前に映るすべての人は生命体だから」
というエッセンスは、場に居合わせたすべての人のこころを穏やかにし、分断によって見えなくなっていた相手の立場を見通す視点をもたらしたように感じられました。
ワークを終了した後も、この感覚は私のなかに残りました(だからこそこの文書を整理のために書いています)。
誰もがほんとうは心の奥でかんじているけれど、それぞれの正しさ、役割、経験、主張、信念、恐れによって見えなくなってしまっているもの。
あるいはそれらをすべてはぎとったときに、そこに残るもの。
コロナというトラブル・あるいは災害によってもたらされたのは、これなのだと。
少し話題が変わりますが、私は僧侶として死を扱う現場にいます。
そして死というものは、あらゆるものをはぎ取るということを、日々体験しています。
どんなに積み上げても、どんなに人脈があっても、どんなに愛があっても、どんなに健康でも、死は必ず訪れます。
そのなかで、死者と接するたびに、私自身、あらゆるものを日々剥ぎ取られ続けています。
ですので、私のなかで、コロナのワクチンについてのエッセンスはある程度見出していました。
それは「死は平等にやってくる」ということ。
当たり前でしょ、と思うかもしれません。
だけどその当たり前のことを受け入れることができない生き物が人間です。
だからこそ、宗教が生まれ、文明を作り上げ、科学が進歩するのです。
けれど。
意識的なコントロールによって、肉体の生死は決して自由にはならないのです。
これは真実であり、仏教の根源です。
このエッセンスを私は僧侶として、持ち合わせていましたが、実際コロナの状況のなかで「死は平等にやってくる」という意見は、確かに真実ではあるのですが、「ワクチンを巡る論争・分断を統合する力があるのか」と問われれば、そうではないかもしれない、という結論にも私は達していました。
そのなかで、今回のワクチンをめぐるテーマについては、私自身大きな関心がありました。しかし関心を持ちながらも、ファシリテーターとしては、場の力とプロセスを尊重するので、私個人の意見による発言は行いませんでした。
そして参加者の激論のなかから、3時間以上が経過していったなかで、現れたこのエッセンスは、私のなかにも直感的なこのような思いをもたらしました。
世界はひとつといった、お決まりフレーズによって汚されてしまった言葉では、分断を統合するエッセンスにはなり得ない。
自己認識として、「私は人間だ」というものでは、「退行」のレベルが足りず、「私は生命体としてあらわれようとしている何かだ」、という根底にまで、私たちは「退行」する必要があるのかもしれない。
その前提に当事者たちが立った上で、コロナを扱い、ワクチンを扱うことができたなら。
「すべての人には向かっていく方向がある。ほんとうは自分が向かう方向を知っている。その信頼がいま見える。なぜなら私の目の前に映るすべての人は生命体だから」
このエッセンスによって、生死という「生命にとっての最高の発明」を携えつつ、多様性という無限の表現の自由を源とする、という選択を、目の前の現実で誰もがとっていくことができるのではないか。
すべての人は、自分が向かう方向を、誰にも示唆されることなく、内的に知っているのだ。
それを生命と呼ぶのだ。
自分には乗り越えていく力がないから、という恐れから、小さな正しさにしがみつくことをやめよう。
また誰かの役に立たねばという思いから、自分の範疇を超えたコントロールを手放そう。
自分には自分の向かう方向があり、その内的な導きのもとに、この瞬間の輝きを行動に変えていく。
それが生命体の本質だ。
ワクチンを打ったとしても、打たなかったとしても。
全員がその本質に従っているのだから、何も間違いはないのだ。
そんな気づきが私のなかにも響いたのです。
少し長く書きすぎました。
またスクールの内容をここまでオープンに普段はすることはないのですが、ワクチンの問題を巡り、あるいは医療の逼迫、政治の関連などで、心が乱れやすい時期にあり、この内容のシェアは目に止まった方の何かの気づきになるかもしれない、という意図で、文面にし、ブログ等に掲載することにしました。
スクールの生徒の皆さん。深い気づきの時をご一緒できたこと、心より感謝いたします。
またスクールのプロセスの一部をこちらに掲載することをお許しください。
ワールドワークは、場の力を用いるために、独特なワークであり、これを文面に書くことで、どこまでそれが伝わるのか私にはわかりません。
私が願うことはたったひとつ。
「一刻も早く疫病が収束し、人の心に平穏が訪れますように」
合掌。
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