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宇宙意識とマナ文化とアカシックレコード

【宇宙意識とマナ文化とアカシックレコード】

もしあなたが真にアカシックレコードにつながる体験を得たなら、このように思うことでしょう。

長い間、私は忘れていた。

私とは、一なるすべてであり、またすべては一なる私として現れている。

私とは、喜びの源泉であり、そのエネルギーを放射するために、ここに存在している。

私とは、この決して途絶えることのない意識の流れそのもの。

私とは、内なるものを外へと表現する目的を持つ。

私とは、自らが作り出した時空のなかへ、無限の魂を流入させ、人生という創造を紡ぐもの。

このような霊的な目覚め、という感覚は、ロゴス的意識から、マナ的な意識へと移行した際に起こるもの。

アカシックレコードへの意識的なアクセスによって、「切り離されていた世界とのつながり」を取り戻すことになるのです。

2021年を生きる私たちは2000年にわたる「地球意識鎖国時代」から解き放たれ、「宇宙意識時代」への移行を果たそうとしています。

イエス・キリストが生誕したとされる紀元年前後より、人類は太陽信仰を中心とした「ロゴス文化」へと集合意識のフォーカスを移行させました。

聖書では「はじめにロゴスありき」「光あれ」と説かれ、一なる創造主を基盤とした「光の文化」が展開されました。光の文化の特徴はごくシンプルに言えば「闇を排除し、すべてを光に変えること」と言えます。西洋的な文化のなかでは、基本的に意識は高めるべきものであり、無意識はコントロールされるものとして、扱われてきました。

またアインシュタインは「光がこの世界の基本法則であり、光の速度を超えるものは存在しない」としました。

それはそのまま自然観にも影響を与えています。

人間は進化の頂点に立ち、自然はコントロールされるもの。その延長線上に「完全な管理社会」が存在します。

太陽光線の下で可視化される領域しか認めないロゴス文化では、エーテル、アストラルといった可視領域でみとめられないものは排除されます。

その結果、人間の意識は物領域のみに閉じ込められ、夜見る夢は単なる空想や、顕在意識の補償作用にすぎない、とされます。

そのため人間とは昼の労働力として、あるいは経済効率や、目的達成のための存在である、という社会形態が基盤にあります。

またすぐれたリーダーが全体を統括し、民衆はリーダーに依拠する、という姿勢を持ちます。

それらロゴス文化と相補的な役割を持つものが「マナ文化」です。

マナとはハワイのカフナの言葉で、根源的な生命力を表す言葉です。

またロゴス文化が男性的であることに対比され、マナ文化は女性的であることが特徴です。またロゴス文化が太陽・昼をあらわし、マナ文化は星々・夜をあらわします。

日本人に転生する魂の多くは、エジプト、ハワイの転生の記憶を所有しています。また古神道ではエジプトの星信仰に近い多神教的な要素があり、エジプトの神々のように、夜の神が存在します。

昼の太陽が落ちた後、夜空に無数の星が輝くとき、人間の顕在意識は鎮まり、無意識に座をゆずります。そのとき目に見えないエーテル・アストラル領域にある「もうひとりの自分」が目を覚まし、活動を始める。この考え方がマナ文化です。

マナの文化では、物理領域はひとつの層にすぎず、そこに重なり合う別次元があることを理解の中心に置きます。

また可視領域の光は物理世界の基本原理ですが、光の速度を超える原理を基本とします。

太陽領域にとらわれた地球の意識では、光の速度を超える原理を理解することはできません。

しかし夜の星々の領域―つまり宇宙意識―にひらかれたとき、私たちは光を超えるもうひとつの意識を元々所有しているということに気がつくのです。

心理学者ユングは、無意識領域とは、個人的な記憶の集積場ではなく、集合無意識を通じて、人類全体がつながりあい、さらに原型領域を通じて、神話やすべての記憶を共有する場であるとしました。

このマナの文化では、全体がひとつであるとするために、リーダーや中央機関というものに全権をもたせることなく、どこに責任の所在があるかは見えづらく、決定権もないが、あるがままにさせることで解決をしていくという形態をとります。まるで私たちの国の話を聞いているような気がしませんか?

そうです。日本の不思議な文化は、このマナ文化にルーツがあるのです。

日本語ではマナとはモノという語であらわされます。

モノを大切にしなさい、もったいない、といった言葉で使われる「モノ」を「万物に宿る生命力」と置き換えてみると、ぱらりと謎が解けてくるでしょう。

また私たちがよく知っている縄文文化とは、まさにマナ文化のことであるといえます。

ロゴス文化とマナ文化は、光と闇、昼と夜、男と女に象徴されます。

本来どちらも重なり合うことによって、真価を発揮するといえるでしょう。

光の文化は基本的に押しが強く、すべてを支配し、従わせる傾向があります。そのため、現代では男性原理―人・モノ・金―が強く表現されています。

その一方でマナ文化は受け入れを基調とし、解決しないことをよしとするため、支配されやすい傾向にあります。そのため女性原理―つながり・感覚・愛―は根本原理になることはありません。

さて。2021年を生きる私たちは、この光の文化・ロゴス文化から、夜の文化・マナの文化へと橋をかけている真っ最中です。

どちらがすぐれているというわけではなく、どちらにも必要性があり、お互いを認めることで、新しい場所へと移行を果たそうとしています。

かつてこのような文化の統合は何度も繰り返されてきました。しかし互いの文化の成熟度が低く、常にどちらかが優位になるというパターンが常でした。

アカシックレコードによると、現代文明とは、ロゴス文化としての頂点にあるということが読み解けます。

感情や動物的な本能から、理性的な部分をいかに取り出し、その光を高めるのかという集合意識的試みは、2020年を持って頂点に達しました。

もしこの先、このままロゴス文化に傾きつづけるとしたら、人類は強すぎる光によって絶滅を迎えることでしょう。

しかし図らずとも、コロナウィルスの影響によって、その一手に「待った」がかかったのです。

これは太陽神を中心とするプレアデス系の意識が強く作用していた集合意識の状態から、そのほかの星々を中心とするアンドロメダ系の意識が強く関与したことによって起こった意識の変化なのです。

これまで私たちは共通の夢に向かってある意味突き進んでいました。

それは「光によって、闇をすべて駆逐する」という方向性です。

それは世界全体が共通の正しさを持ち、悪を排除すれば、幸せになれる、といった考え方です。

しかしマナ文化はこの考え方をうけいれながらも、このように諭すでしょう。

「どんなに光を強めても、その向こう側にまた影が生まれる。同じようにどんなに正しさを強めても、それで物事のすべては解決しないのだ」と。

さて。

私にとってアカシックレコードにつながるということは、外側の夢を追い求めるロゴス的な働きを一時的に休めることで、内側のマナ的な働きを目覚めさせることに他なりません。

人間とは、外的な行動と肉体のみに縛られた存在ではありません。

無意識の奥にあるアカシックレコード領域で私たちはつながりあい、共に育み合っています。そしてまた個人の記憶の奥には、星々を本体とする宇宙意識に開かれたアカシックレコード領域があり、夜眠る時に、魂は自由に宇宙を駆け巡り、昼に地球上で体験したものを解き放つのです。

もしあなたが真にアカシックレコードにつながる体験を得たなら、このように思うことでしょう。

長い間、私は忘れていた。

私とは、一なるすべてであり、またすべては一なる私として現れている。

私とは、喜びの源泉であり、そのエネルギーを放射するために、ここに存在している。

私とは、この決して途絶えることのない意識の流れそのもの。

私とは、内なるものを外へと表現する目的を持つ。

私とは、自らが作り出した時空のなかへ、無限の魂を流入させ、人生という創造を紡ぐもの。

このような霊的な目覚め、という感覚は、ロゴス的意識から、マナ的な意識へと移行した際に起こるもの。

アカシックレコードへの意識的なアクセスによって、「切り離されていた世界とのつながり」を取り戻すことになるのです。

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