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この世界にはまだ歌われていない歌がある。
その歌はきっと歌われることを待っている。

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なんて恥ずかしい悟りのありようだ 絶学無為の閑道人

なんて恥ずかしい悟りのありようだ
絶学無為の閑道人

あるお坊さんが山のなかで悟りをひらきました。
通りすがりの人々はその徳の高さが滲み出す姿に手をあわせ、拝みます。

そして人だけではなく、鳥や動物たちも、花やくだものを捧げ物として、そのお坊さんの前にお供えします。
しかしその後、数年経ったのち、誰もそのお坊さんに見向きもしなくなり、鳥も動物たちもそしらぬ顔で、通り過ぎるようになりました。

一体何が起こったのでしょう?

このお坊さんはなぜ人にも鳥も動物にも見向きもされなくなったのでしょうか?
どうぞ少し考えてみてくださいませ。

怠け、徳が下がったからでしょうか?
それとも何か間違いを犯したから?違うのです。

答えは、周囲に自分が承認を求めていたことに気がつき、それをやめたから、です。

あの人は偉い人で、徳がある人だと、人々に知られるならいざしらず、鳥や動物たちにも、その心を見透かされるようでは、まったく修行がたらん!ということ。

この話は有名な禅のお話なのですが、逆説的で愉快です。普通だったら、鳥も動物も御供物をもってくるなんて、とても境地が高いに違いないという大衆的な感覚を鳥も動物も御供物を持ってくるとは「なんて恥ずかしい悟りのありようなんだ」と一蹴するのですから。

永嘉玄覚禅師このようにいいました。

君見ずや
絶学無為の閑道人
妄想を除かず真を求めず
無明の実性即仏性幻化の空身即法身

あなたは会ったことがあるだろうか?
学ぶものはなにもなく、することもなにもないほど、くつろいだ人に。
その人は、妄想をはずすこともしないし、真理も求めない。
だからこそ迷いはそのままで悟りであること。
まぼろしのようなこの肉体は、そのまま永遠の姿のあらわれであることをよく知っているのだ。

私たちはときに、「高い境地とは人気や地位として現れる」と信じやすいものです。
けれど、仏教的な価値観ではそれがまったく逆転するのです。知らず知らずのうちに私たちは、自分の価値を他の人に求めてしまうもの。
一見、外側にある価値は、誰もがほしいもののように見えるかもしれません。
けれど、ほんとうに欲しいものは、外側にはないのだと知ったときに、自分自身をただただ生きることだけで、すべての望みは叶っているのだと知ることができるのかもしれません。

今日はお彼岸。
ススキを渡る夕方の風はとても心地よく、田んぼの脇に咲いた彼岸花をなでていきます。
ススキも、彼岸花も、人間も。自分以外のものにはなれないのです。
そして同時に、すべてのものがなれる最高の自分を生きているのです。

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