カドゥケウスの杖とジョジョとエヴァンゲリオンとマジック
カドゥケウスの杖についてー齊藤つうりブログよりー
カドゥケウスの杖。
杖の周りに、2匹の蛇が絡み合い、その先端には翼がある。
ギリシャ神話に登場するヘルメスはこの杖を手にし、死者の魂を冥界へ送り、夢や変性意識を自在に行き来する、神の伝令役ととして、あらゆるマジックを操ったとされる。
現代では、このカドゥケウスの杖は医療関係のシンボルとして知られている(医療の神が持つアスクレピオスの杖と混同されたという説もあるが、あえて今回はカドゥケウスの杖としておく)。
この杖がなぜ、マジックとヒーリングのシンボルとして持ちいられるのかについて書いてみる。
このシンボルの最大の特徴は2匹の蛇だ。
蛇は神秘学では、人生のプロセスの動き、量子的エネルギー、波動を表す。
これが2匹の蛇となる場合は、対になるエネルギー、陰陽、既知と未知など、それぞれ異なる特性を持った状態を表す。
このシンボルでは、2匹の蛇はからみあいながら、頂点の一点を目指している。
これは人生の異なるプロセスが互いに重なりあうことで、螺旋状に旋回していくエネルギーを示している。
ブッダプログラムのスクールでは、一次プロセス、二次プロセスという概念をよく用いる。
これはアーノルドミンデルが生み出したプロセスワークの用語だが、非常に適用範囲が広いので、私は好んでこの表現を使う。
一次プロセスとは、通常の人生の流れ。
予想されたスケジュールで人生が動き、ある程度のルーティーンを私たちは繰り返す。
既知なる人生の流れ。自我的なもの。顕在意識的なもの。ロゴス的なもの。これが一次プロセスだ。
二次プロセスとは、未知なる人生の流れ。
日常を過ごしていると予想を覆されることがたまに起こる。そして予想が立たないので、これまでとまったく違った対処や考え方や言動が引き起こされる。
未知なる人生の流れ。無意識レベル。影、身体、環境レベルによる自己統合のための動き。大いなる導きの力。牛の力。レンマ的なもの。
これが二次プロセスだ。
人生はこの二つのプロセスによって成り立っている。
既知と未知は普段は相容れない。
しかし既知のもので日常が埋め尽くされると生命力が枯渇してくる。
そして未知なるものを人は日常に呼び込み、淀んだ日常を破壊し、再構築する。
ドラえもんのアニメも同じ構造をしている。
のび太の既知の毎日のなかに、未知なる未来の猫型ロボットがやってきて、既知が未知によって覆され、破壊され、そして再構築される。
さて。
カドゥケウスの杖はこのふたつのプロセスが重なり合う様を表している。
異なる二つの極が一見バラバラな動きを持ちながらも、結果的に補い合い、頂点の玉を目指す。
また蛇の動きは、特定の出来事における、時間の行き来を表している。
人間関係のもつれなどが生じた時、どちらが最初に何かをしかけたか、ぶつけたかなどの原因を現実社会では追求する。
また身体レベルの疾患が生じた時、きっかけは何か、どのような習慣がそれを生み出したかという原因を現代医療では見つけようとする。
しかしこの二対の蛇が表すものは、それらは互いに引き合い、縁として起こるものであり、繰り返す時間のなかで、たびたび現れてくる、ということだ。
人間関係のトラブルや疾患などは一見、外側の問題のみで引き起こされるように見える。
しかしそれらは異なる極としてあらわれた自分自身のエネルギーなのだ。
たとえばジョジョの奇妙な冒険(全部好きだけど、1ー3部あたり)では、主人公のジョジョと吸血鬼のディオという宿敵がいる。
この二人の異なる強烈な善悪の信念によって、物語に読者は引き込まれる。
4部以降では主人公のジョジョはいるものの、宿敵ディオがいなくなり、悪のやや味わいが薄くなる。
そして作者の荒木は、またディオを物語に再登場させることで、ジョジョがジョジョであることの物語性へと戻ってくる。
これはトラブルや疾患などが持ち込むエネルギー(顕在意識では統合できず、無意識に周縁下されたもの)から離れようとすると、本質的な人生の味わいをなくしてしまい、結果的にプロセスが滞ることを意味している。
簡単に言えば、目の前の悪を、悪と断絶し、切り離すことによって解決をしようとするとき、私たちは人生のドアを閉めることをしてしまっているのだ。
また脊柱の基底部に眠るクンダリニーが、スシュムナー菅を中心に陰陽のエネルギーとして昇る様子とカドゥケウスのシンボルは同じ概念を示している。
陰陽の極に別れた、チャクラごとのプロセスが人生では展開されている。
「良きもの」を追い求める時、「悪しきもの」が目の前に現れる。
人生の初期の段階では、それらは外にあるものとして対処し、悪を滅し、善を生み出すことに熱中する。
しかし第四チャクラ移行の段階にはいるとき、周縁下された悪を内側にみることなしには、その先へ進むことができないことを知る。
90年代を代表するアニメ、エヴァンゲリオンでは、それ以前のアニメが、既知と未知をのび太とどらえもん、善と悪をジョジョとディオとを別々のプロセスとしてあつかっていたものが、主人公シンジの心のなかの動きとして扱われる。
そのため、エヴァと使徒(天使)とが、単なる敵味方ではなく、重なり合い、相補的な存在として描かれる(そして両者の向かう先は奇しくも人類補完計画として一致する)。
すこし話が長くなってきたが、カドゥケウスの杖に戻ろう。
カドゥケウスの杖がもたらすものは、この既知と未知、陰陽、意識と周縁下された無意識(影)とを、取り扱う態度のことだ。
マジックを扱うものは原則として、万物照応の法則を知らなければならない。
目の前の問題とは照応関係としてあなた自身を表している。
それゆえに問題を解決しようとするのではなく、自分の何が表現されようとしているのかを理解した上で、大いなるプロセスに身を委ねる。
そのときカドゥケウスの杖は、繰り返す時間のなかで、一体何が展開されているのかをあなたに見せるだろう。
トラブルとして、疾患として、ときには説明のつかないような悪として現れていたものは、あなた自身を表し、大いなる自己へと導くためのガイド。
その感覚こそが、カドゥケウスの杖のもたらす力であり、あらゆる病を癒し、時間と場所と意識を超えうるマジックそのものなのだ。
しかしシンボルが意識・無意識にもたらす力とは凄まじいもので、これらの理性的な説明はいっさい必要がない。
ただこのカドゥケウスの杖を眺める時。
私たちはヘルメスが用いるマジックの本質と、身体に引き起こす作用を得ることができるといえる。
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