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この世界にはまだ歌われていない歌がある。
その歌はきっと歌われることを待っている。

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間違った自分をさらけだすこと【ブッダスクール通信vol.96】

みなさま、こんにちは!
ブッダスクール通信メルマガ担当のさめじまみおです。

梅雨らしいお天気がつづく今日この頃。東京は今日もくもり空です。

さてさてわたしには以前から、とても尊敬している友人がいます。

仕事もできるし、行動力もある。判断も早くて、どんな場面でも落ち着いている。
わたしはずっと、その強さや優秀さに憧れていました。

でも、ある日、その友人とご家族が何気ないやり取りをしていたときのことです。
ケンカというほどではない、本当に些細なやり取りの中で、その友人がふいにぽろっと涙をこぼしたんですよね。
たぶんその場にいた全員が、驚いたと思います。
その人は、人前で泣くようなタイプではおよそなかったから。
でもその瞬間、わたしの中で何かが変わったのでした。

の、続きは編集後記にて。

それでは本日も、つうりさん特別コラムをどうぞお楽しみください!

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    〔1〕齊藤つうり特別コラム
「間違った自分をさらけだすこと

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リーダーやティーチャーは、しっかりもの。
そんなふうに思うかもしれない。

間違ってはいけない。
弱さを見せてはいけない。
迷いを見せてはいけない。
相手を導く立場なのだから、常に確かな存在でなければならない。

しかし私は、むしろ逆ではないかと思っている。

リーダーやティーチャーにとって本当に大切なのは、正しい自分を見せ続けることではない。
時には、間違った自分をさらけだすことである。弱い自分、未完成な自分、矛盾を抱えた自分を、あえて見せることである。
なぜなら、人を導く場には、必ず「暗示」が発生しているからだ。

暗示とは、私たちが無意識のうちに心の内側で繰り返している言葉や、幼い頃、特に五歳以前に、親や周囲の大人から受け取った言葉、繰り返された態度や言動などが、知らず知らずのうちに潜在意識の奥深くに刻み込まれ、それがまるでテープレコーダーのように内側で何度も再生され続ける心の働きのことである。

この「暗示の力」について、スピリチュアルな活動をしている人、セッションを行っている人、セラピストやティーチャーとして活動している人は、決して見逃すことができない。

なぜなら私たちは、知らず知らずのうちに、この暗示を使っているからである。

ただし、ここで大切なのは、暗示そのものを「悪いもの」「怖いもの」として捉えないことだ。
暗示は、それ自体が善でも悪でもない。
人を縛ることもあれば、人を癒やし、支え、新しい方向へ導く力にもなる。

大切なのは、暗示を無自覚に使うのではなく、意識的に、誠実に扱うことである。

暗示にはさまざまな種類があるが、ごくシンプルに分ければ、直接的な暗示と間接的な暗示がある。
直接的な暗示とは、言葉ではっきりと伝えられるものだ。

一方、間接的な暗示とは、態度、雰囲気、言動、身体の仕草などを通して伝わるものである。
言葉で明確に伝えていなくても、その人のあり方や場の空気そのものが、相手に暗示として作用することがある。

そして、もう一つ重要なものに「権威的な暗示」がある。

たとえば私たちは、「東大の先生が言っている」「スタンフォード大学で学ばれた方法である」と聞いただけで、その瞬間に暗示が発生することがある。

知らず知らずのうちに、その権威を通じて、自分の潜在意識を明け渡してしまうのだ。
つまり、顕在意識が「それは本当に良い情報なのか」「自分にとって必要なものなのか」を判断することをやめてしまい、その言葉をそのまま潜在意識の奥に届けてしまう。

これが、権威的暗示である。

権威的な暗示は、時に私たちにとって非常に大きな作用を持つ。
スピリチュアルな分野においても、「有名な大学で研究されている」「著名な先生が語っている」と聞いただけで、私たちは無条件に信じてしまうことがある。

そして、それを心の内側に入れ、「これは正しいものなのだ」「確かなものなのだ」と思い込んでしまう。

しかしそれは、私たちの中にもともと、
「権威はすごいものである」
「自分はその権威には及ばない」
「権威には従うべきである」
「権威は間違わない」
「権威には抵抗できない」
という、深く刷り込まれた暗示があるからなのかもしれない。

だからこそ、スピリチュアルなことを扱う人、セラピストとして活動する人、あるいは私自身も、常に気をつけていることがある。

それは、クライアントや生徒さんに接する時、すでにそこには暗示の力が発生しているということだ。

直接的であれ、間接的であれ、そこには権威的な暗示が入り込む。

セッションを受けているということ。
スクールに来ているということ。
先生と生徒、セラピストとクライアントという関係性があるということ。

それだけでも、すでに暗示は発生している。

なぜ、このことを覚えておかなければならないのか。

暗示が強く働いている時、クライアントや生徒さんは、普段よりも相手の言葉を受け取りやすくなる。
そのため、それが本当に自分に必要なものなのか、適切なものなのかを、少し距離を置いて判断する力が弱まりやすい場合がある。

そして、セラピストや先生が使った言葉が、相手の潜在意識の内側に残り、まるでテープレコーダーのように、その人の内側でずっと機能し続けることがある。

私たちは、このことを深く覚えておかなければならない。

私はセッションを行う上で、このことをとても意識している。しかし、意識しすぎるということはない。
なぜなら、こちらが意図するかどうかに関わらず、すでに暗示は発生しているからである。

私自身の体験を一つお話ししてみる。

以前、私がある優れた先生について学んでいた時、私はその先生を非常に尊敬していた。
そのため、暗示が発生していることを頭では知りながらも、その先生の言葉を自分の内側に深く入れていたのだと思う。

すると、知らず知らずのうちに、私の言動がその先生に似てきたり、影響を受けすぎてしまっていることを、パートナーから指摘された。

その時、私ははっとした。

私たちは、良い意味でも悪い意味でも、こうして暗示を行っているのだ、と。
そして私自身も、人に何かを教える立場において、同じことをしているのだ、と気づいたのである。

生徒さんが私の言葉を真似たり、私が使った用語や文脈で話したりする時、そこには共通の理解が生まれているように見える。
すると私は、知らず知らずのうちに「もっと理解してほしい」「もっと伝えれば、相手はもっと良くなる」と思ってしまうことがある。

しかし、実際にはそう単純ではない。

暗示が深く入りすぎると、相手は自分自身の感覚よりも、セラピストや先生の言葉を優先してしまうことがある。
その結果、気づかないうちに依存や盲信に近い状態が生まれてしまう可能性がある。

だからこそ、セラピストやティーチャーの立場にある人は、この点に十分注意しなければならない。

時に矛盾したことを語ること。
時に間違っている自分を認めること。
あるいは、セラピストやティーチャー自身が、弱い自分や未完成な自分を見せること。

そうすることで、権威的な暗示が少しずつ解かれていく。

生徒さんやクライアントが、そこにずっと持たせていた暗示の力、いわば鎖のようなものを、意識的に断ち切っていく。
その作業が、セラピストやティーチャーには求められる。

いや、求められるどころか、その断ち切り方を知らないまま人に関わっているとしたら、ティーチャーやセラピスト自身が、無意識のうちに大きな問題を抱えている可能性がある。
あるいは、知らず知らずのうちに相手をコントロールしているということを、自覚しなければならない。

だから私は、講座の中で、自分自身の欠点をあえて話したり、人間的な弱さや未熟さを隠さず語ったりすることがある。

それは単なる自己開示ではない。権威的な暗示を解くための一つの方法でもある。

直接的な暗示や間接的な暗示は、もちろん必要に応じて働くことがある。
しかし、権威的な暗示が外れることによって、生徒さんやクライアントはふと我に返ることができる。

「ああ、この人も人間なのだ」
「この人にも間違うことがあるのだ」
「この人の言うことが、すべて正しいわけではないのだ」

そう感じることができた時、相手は自分自身の感覚を取り戻す。

お互いがふと我に返った状態でなければ、私たちは知らず知らずのうちに、お互いをコントロールし合ったり、一方的な暗示の力に飲み込まれたりしてしまうのかもしれない。

では、私たちは暗示に対して、どのように向き合えばよいのか。

まず大切なのは、自分の内側で繰り返されている言葉に気づくことだ。

「私はどうせ無理だ」
「私は愛されない」
「私は人より劣っている」
「私は誰かに従わなければならない」
「先生や権威ある人の言葉は、必ず正しい」

もしこのような言葉が心の奥で繰り返されているなら、それはすでに自己暗示として働いているのかもしれない。

次に、その言葉と少し距離を取ることだ。

「これは本当に私の言葉なのだろうか」
「これは過去に誰かから受け取った暗示なのではないか」
「私は今も、この言葉を信じ続けたいのだろうか」

そうやって問い直してみる。

すると、これまで自分そのものだと思っていた言葉が、実は過去に受け取った暗示であり、自分で選び直すことができるものだと気づくことがある。

そして、その上で新しい言葉を選んでいく。

「私は自分の感覚を大切にしてよい」
「私は自分で選ぶことができる」
「私は人の影響を受けながらも、自分の道を歩くことができる」
「私は必要な学びを受け取りながら、自分自身に戻ることができる」

このように、自分を縛る言葉ではなく、自分を支え、導く言葉を選び直していくこと。

それが、セルフヒプノにおける暗示の大切な使い方である。

ただし、新しい暗示は、言葉だけで終わるものではない。
その言葉に沿った小さな行動を重ねることで、少しずつ自分の内側に根づいていく。

たとえば、「私は自分で選ぶことができる」という言葉を選んだなら、日常の中で小さな選択を自分に許していく。

誰かの意見を聞いた後に、自分の感覚にも問いかけてみる。
先生やセラピストの言葉を受け取った後に、それを自分の内側で確かめてみる。
自分にとって本当に必要なものだけを、丁寧に選び直していく。

そうした小さな実践の積み重ねによって、暗示は単なる言葉ではなく、自分自身を導く力へと変わっていく。

今は、自律性の時代であり、個性化の時代である。

以前は、権威的な暗示を使って人々を導くことも、一つの方法だったのかもしれない。
けれど、今、私たちはもうそういう時代にはいないと感じている。

自律性、個性化の時代とは、それぞれの人が自分自身に目覚めていく時代である。

そして、自分自身に目覚めるということは、親や他者から受けてきた暗示に気づくことでもある。
また、自分で自分にかけている暗示の力に気づくことでもある。

それこそが、自律性であり、目覚めなのだと思う。

人は、暗示の影響をまったく受けずに生きることはできない。

しかし、暗示に対して意識的になることはできる。
そして、もし意識的になることができたなら、その暗示は自分で上書きしていくことができる。

自分自身が本当に信じたいもの。
自分が本当に向かいたい方向。
自分が生きたいあり方。

それらを、さまざまな人の影響を受けながらも、自分自身の意志によって選び直し、自分が向かいたい方向へと、自分自身を導いていくことができる。

暗示とは、人を縛るためのものではない。

本来それは、自分自身を目覚めさせ、自分が本当に生きたい方向へと導くために扱うものだ。

そして、リーダーやティーチャーが自分の間違いをさらけだす意味も、ここにある。

それは、相手に失望させるためではない。
自分の価値を下げるためでもない。
権威を失うためでもない。

むしろ、相手の中に無意識に生まれている権威的な暗示をほどき、その人自身の感覚を取り戻してもらうためである。

「この人も人間なのだ」
「この人にも間違いがあるのだ」
「だから私も、自分の感覚で確かめてよいのだ」

そう思えた時、生徒さんやクライアントは、先生やセラピストに従うだけの存在ではなくなる。
自分で感じ、自分で選び、自分で歩き出す存在へと戻っていく。

だからこそ、これからのリーダーやティーチャーに必要なのは、完璧な自分を演じ続けることではない。

間違った自分をさらけだす勇気である。

その力を無意識に使うのではなく、意識的に、誠実に、そして相手の自律性を尊重しながら扱うこと。

暗示の力の使い方とは、人間の集合意識のプロセスをそのまま表しているのかもしれない。

暗示をコンロールとして利用するのか。

暗示をそれぞれの自律性に活用していくのか。

まさにいま私たちは、管理と自律の境界線に立っているのだろう。

 

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     〔2〕最新スクール情報
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【募集開始】アルケミスト上級WS<オンライン>

宇宙・太陽・月の神々によるイニシエーションと
叡智の現実化マジックの習得
2026年7月25日(土)・26日(日) 

「アルケミスト」とは、宇宙の創造の原理を理解し、その流れと調和しながら、自らの人生を創造していく者のことです。

今回の上級ワークショップでは、錬金術の智慧を土台に、生命の木の体系を通して「宇宙の神・太陽の神・月の神」と出会い、それぞれの領域からイニシエーションを受けていきます。

私たちが日々体験する現実は、偶然の積み重ねではなく、宇宙の創造のプロセスそのもの。その仕組みを理解するとき、「現実化のマジック」は単なる願望実現ではなく、自分の本質と世界を結び直す叡智であることが見えてきます。

初級・中級で学んだ四大元素、カバラ、生命の木、惑星期の理解をさらに深め、宇宙の源から現実世界までをひとつの流れとして体験していく上級編です。

なお、本ワークショップは各回完結型のため、初級・中級を受講されていない方でも、今回のテーマに惹かれる方はご参加いただけます。

【募集開始】アルケミスト上級WS<オンライン>

 

 

 

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       〔3〕編集後記
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ほろっと涙を流した友人に対して、尊敬していた気持ちがなくなったわけではありません。

むしろ、その人のことを以前よりずっと近く感じたんですよね。

振り返ってみると、それまでのわたしは、その友人を一人の人間として見ているようで、どこか「強さ」や「優秀さ」の象徴として見ていたのかもしれません。

友人が語る言葉に対しても、「すごいなあ」と思いつつもどこかで「そりゃあ、あなただったらできるでしょうよ」

みたいに、自分との間に、勝手に距離をつくっていました。

だからこそ、その人が涙を見せた瞬間、自分の中にあった思い込みが、ふっと溶けていくような感覚があったのです。

もちろん、その友人への尊敬は何も変わりません。

でも、以前よりももっと親しみを感じるようになりました。

「ああ、この人も同じように悩んだり、傷ついたりするんだ。」

そう思えたことで、完璧な存在ではなく、一人の人として、その人を見ることができた気がします。

そして、その出来事は、自分自身にも小さな変化をもたらしてくれました。

もしかしたら、わたしももう少し、自分のやわらかい部分を見せても大丈夫なのかもしれない。

弱さを見せたら嫌われる。期待を裏切ってしまう。
がっかりされて、軽蔑されて、みんなが離れていってしまう。

だからわたしは、一生懸命「できます」「わかります」「やります」という顔をし続けてきたのかもしれない。
でも実際には、人って、不完全さを触れ合わせて、相手と近づいていくのかもしれない。

少なくとも、わたしにとってはそうでした。

もちろん、誰にでも何でも話せばいいってものでもないし泣けばいいわけでもないし(笑)、できることはしっかりやったほうがいい。
けれどあの日、友人の涙を見たことで、わたしは友人をもっと好きになりました。

そして同時に、自分自身にも少しだけ「完璧じゃなくても大丈夫」と言ってあげられるようになった気がしています。

今日も、最後までお読みくださり、ありがとうございました。

文責:さめじまみお

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