あなたは善人?それとも悪人?ー悪人正機説ー
あなたは善人でしょうか?
それとも悪人でしょうか?
この質問にあなたはなんと答えるでしょう。
善人でも覚醒できるのだから、悪人だったらもちろん覚醒できるに決まっているだろ?
これは親鸞和尚の言葉ですが、これを読んで「?」と思うかもしれません。
善人でも覚醒できるのだから、悪人でも覚醒できる?
逆じゃないの?と思うでしょうか。
普通の感覚では、「良い人」とはルールを守る人、良識があり、悪いことをしない人、などと思えるでしょう。
しかし仏教的な観点ではここに深い考察が入ります。
善人とは「自分自身を善だと信じている人」であり、自分のなかの「悪」を見ないようにしている状態のことを指します。
誰の心のなかにも悪は存在します。けれど私たち人間は悪が自分のなかにあると思うと苦しくなってしまうので、それを外に見出します。そして「自分は悪くないはずだ。相手が、周りが悪いのだ」と必死に壁を作り、自分の世界の「善・正しいもの」にしがみつきます。
これが仏教でいう「善人」の姿です。
現代は末法という時期にあたります。この末法とは、人が自分の心のなかを省みることなく、外にばかり原因を見出そうとする時代だと言われています。その時期のスタンダードな人間が「善人―自分は正しいと信じ、善なるものしか心のなかに見ない人―」なのです。
どうでしょうか?
ここまで読んでみて、これより先は読みたくないな、と思った人。
この先はもっと大変になるかもです笑。
さて。
その善人が成熟した姿が「悪人」というレベルになります。
悪人の方が、善人より成熟している、という思考法はとてもトリッキーですよね。
悪人とは「自分のなかには確かに悪が存在するのだ」と自己認識している状態です。
「自分という存在の認識は正しさのフレームによって成り立っていて、その正しさにそぐわないものを見出した時に、心のなかに悪を作り出す。そしてまた自分が正しさを盾に相手を責める時、その自分自身こそ悪そのものとなっている。だからこそ、誰かが悪をなしていると見えた時、それは自分のとらわれから見たときの悪であり、外側に悪があるわけではないのだ」
これが悪人―自分の正しさのフレームを知りながらも、そこにしがみつくことなく、こころのなかに悪を認めることができる人―の認識です。
さて。
ここまで読んでくると冒頭の言葉の意味がよくわかるのではないでしょうか?
これは親鸞和尚が放った、痛烈な皮肉なのです。
*
善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや。
善人でも覚醒できるのだから、悪人だったらもちろん覚醒できるに決まっているだろ?
だけど普通はこう思うだろう?悪人でも覚醒できるのだったら、善人だったらもちろん覚醒できるはずさって。
*
捉え方が全然、逆だよね!という皮肉がここに込められているのです。
私は世の中の善というものは、ある意味とても怖いものだと感じます。
自分が正しいことをしている、良いことをしている、という人は、自分のなかに悪を見出すことがないので、一方的に責めることができるからです。
みんながこの方向に向かっている、だからあなたもこうしなさい、それが良いことなのだ。
しかし「みんながこの方向へ向かっている」というものは、ほんとうはいつでも変化しています。
だからこそ「良いこと」も常に変わるのです。
戦争の時には、相手の国を憎み、偏見を増すことが良いことであり、また私たちの現場である疫病の際には、そのとき信じられている、あるいは一般的に言われていることを行うことが良いことだとされます。
そしてそれにそぐわない人は悪とみなします。
けれどこの心のダイナミクスの中にこそ、戦争の源があり、差別があるということに目を向ける人は少ないのです。
なぜなら「自分が正しくない」という認識はとても苦しいものだからです。
しかしこのとき、あなたに「悪人」の自覚があるならば、苦しみの方を選ぶでしょう。
皆が進む方向がいかに正しいように見えたとしても、そこに従うことで世間的な利益が得られたとしても、自分の心には嘘がつけないからです。
悪を自分のなかに見出すこと。
それは誰かを責めそうになる時、自分の弱さを見ないようにしているということに気がつく、ということです。
世界が真の意味で平和になる道はたった一つしかありません。誰もが自分の中に悪を見出し、心を成熟させる道を選ぶことです。
世間的な華やかさは「あなたは善人だ。光だけを見なさい」と言うでしょう。そして「悪を排除し、善を生きなさい」というかもしれません。
けれどもしあなたが「悪人」であるならば、「悪は手放すものではなく、常に自分のなかにあり、つきあっていくもの」と悟っているでしょう。
だからこそ、外側に「世間で悪といわれる人」があらわれたとき、自分のこころのなかと同じように、そのひとを変えるのでもなく、許すのでもなく常に存在するものとして、こころの内側にその人を見出す道を選ぶでしょう。
さてー。
あなたは善人でしょうか?
それとも悪人でしょうか?
追。
この話は犯罪人を許容せよとか、いまDVを受けているが、その相手とつきあっていけ、などといったカテゴリーの話ではありません。
もしあなたが直接それらから危害を受けているとしたら、全力でそこから離れるよう、あらゆる手段を尽くすべきです。
身体的な安全や、生活の保証が確保されない状態では心の成熟などは望めるものではないからです。
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