サイキック開発の3ステップ
外側の現象をしっかりと理解する力に現代は比重を置いています。
けれど内側の感覚はずいぶんと置き去りにされているのかもしれません。
その二つをどちらも等しく、適切に扱うことができるようになることが、時代の成熟なのだと私は考えています。
外にあらわれているものだけがほんとうではない。
おなじように内にあるものだけがほんとうではない。
どちらもを磨き、深めていくときに、荒い原石からダイヤモンドが磨かれていくように、「自分らしさ」が現れてくる。
そこにほんとうのものがあらわれてくる。
サイキック領域の開発というものを、そんなふうな眼差しで扱える時代がもうすぐやってくるはず。
私はそれを確信しています。
サイキック領域というと「超能力領域」と日本では訳されます。
けれどこれはトランスパーソナル心理学では「心の奥の微細な領域」という扱いです。
だからそれは「特殊な力」ではなく、「人間が本来的に持ち合わせている心の領域」ということですよね。
オーラ視覚の開発や、テレパシーのトレーニングは、その意味でいえば「特殊な能力の開発」というものではなく「ずっと以前に私たちが大切にしていたありよう・心の領域」といえます。
だからこそ、これらのトレーニングを行っていくプロセスのなかで、誰もが「あ。この感覚。思い出した気がする」という感じを体験するのです。
そして自分自身の本来のありようを取り戻した感覚がやってくる。
そのプロセスのなかで「自分が元々この世界をどんなふうにとらえていたか・つながっていたか」をだんだん思い出してくるのです。
現代は「外側の客観性」が重視されやすい。誰がみても同じ。誰が検証しても同じ結果。何度やっても同じ現象が起こる。それが「真実」ということの証明になりやすい。
そんな時代のなかで「自分がどう感じているか。どんなふうにこの世界をとらえているのか」という「内側の主観性」はかき消されてしまう。
そして現代は集合意識として「外側の客観性」に傾き過ぎているために、心の微細な領域であるサイキック領域を抑圧しています。
サイキック領域の開発のファーストステップは、「内側の主観性-自分が何を感じ、世界をどうとらえているのか-」を取り戻すこと。
外から見てどのように評価されるか、ではなく、あなたがどう感じ、どうとらえているのかに目を向けることからはじまるのです。
そんなふうに自分の内側を認めることができるようになってくると、オーラ視覚やテレパシーの感覚は自然のうちに開かれてきます。
そしてサイキックな領域の開発のセカンドステップとは「内側の主観性」を「内側の客観性」にまで高めていく作業です。
子供の頃は誰しもサイキックな領域を持ち合わせています。
しかし心の発達が未成熟なために、自分の感情や好き嫌いと、サイキックな領域を重ねてしまいやすい。だからこそ大人たちは心の微細な領域を言葉にする子供に対して、軽くあしらってしまうことが多いかもしれません(あるいは過度にサイキックな力を持ち上げて、特別な子供だと認めようとする。これはこれで問題です)。
もしあなたがサイキック領域を理解する大人だったとしたら、子供が微細な領域の感覚を口にするときこう思うはずです。
「確かにこの子はまだ未成熟で、自分の主観と現象をごちゃごちゃにしてしまっている。しかしこの子が感じている心の微細な領域に関しては大切な真実が含まれている。現象と心の領域のふたつをしっかりと見据えながら、何がこの子を通じてあらわれようとしているのかをしっかりと見定めていこう」と。
もしあなたがそんなふうに、外側がすべてなんだという態度でもなく、また過度に内面を重視するわけでもなく、微細な心の領域を認め続ける態度を取ることができたなら。
そして時代がそんな成熟したなら。
その子供は自分自身を損なわないままに、現象としての客観性を理性的に持ち合わせると同時に、サイキックな能力を十全に発揮する大人へと成長していくことができるでしょう。
それがサイキック開発のサードステップです。
外側の現象をしっかりと理解する力に現代は比重を置いています。
けれど内側の感覚はずいぶんと置き去りにされているのかもしれません。
その二つをどちらも等しく、適切に扱うことができるようになることが、時代の成熟なのだと私は考えています。
外にあらわれているものだけがほんとうではない。
おなじように内にあるものだけがほんとうではない。
どちらもを磨き、深めていくときに、荒い原石からダイヤモンドが磨かれていくように「自分らしさ」が現れてくる。
そこにほんとうのものがあらわれてくる。
サイキック領域の開発というものを、そんなふうな眼差しで扱える時代がもうすぐやってくるはず。
私はそれを確信しています。
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