子育てに向いていない人ー子供の虐待と死を解決するにはー
連日、世間をにぎわす子供の虐待と死のニュ-ス。
残虐非道な行いに、怒りに震える、という声を私のまわりでよく聞きます。
常識論や感情論に入る前に、私の考えを書いてみたいと思います。
私たちは生物として、自分の敵味方を瞬時に判断し、日々の生活をしてます。
たとえばこんな経験がありませんか?
付き合いだした最初はいい人だと思っていたけど、とんでもない人だということに気が付いて、その人との付き合いをやめた。
だれでもこの経験はあるとおもいます。
しかしここで大事なことがあります。
その人は本当にとんでもない人だったのでしょうか?
私たちは人間として瞬時に善悪の判断を下すようにプログラムされていて、究極のところ、人間として社会生活を営む以上はその制約から逃れることはできません。
だから、「この人はそういう人なのだ」と思い込んだら、そうである理由をさがし、相手のあらゆる言動を、自分自身の信念に当てはめようとします。
もしそういったフィルタ-が存在しなかったらしたら、客観的に見ればこういうことが言えます。
「人は良い面もあれば、悪い面もある」
ということです。
あまりにも当たり前かもしれませんが、ちょっとこの例を読んでみてください。
朝通勤電車の中で、優先席にどっかりすわっているおじさん。
眼の前にお年寄りや、妊婦がいても見向きもしません。
職場では仕事熱心で、部下の信頼も厚く、取引先からも認められています。
家庭に帰ると、奥さんにはとても優しく、料理も作ります。
子供に対しては厳しく、ときに手をあげます。
暴力的な映画を好みます。
ペットのチワワをとても可愛がり、一緒に眠っています。
さて。
これを読んだときに、あなたにどんな反応がありますか?
もう一度読んでみてださい。
あなたのなかで、この人が良い人なのか悪い人なのか、どういった傾向があるのかを見つけようとする、「判断」の基準がゆらめくのがわかるでしょうか?
そして人は実際こういう存在です。
つまり良いところもあれば、悪いところもあり、それがどのような分布で存在していようとも、あらゆる人は、このように判断のつかない、でたらめな傾向性を所有している、ということです。
しかし私たちは自分の信念にしたがって、「こういう人」という水準を欲します。
そうしないといられない生き物だから。
さて。
では子供を虐待した人物は、人として本当にひどい人だったのでしょうか?
とんでもない人物だったら、そのような行動をとったのでしょうか?
いいえ違います。
ある意味では普通の人です。
そして私たちもその意味では全員普通の人。
良い面も悪い面も持ち合わせています。
そして書きたいことはここからです。
良い面も悪い面も誰しももちあわせているものだけど、「向き不向き」ということも誰しも同じように持ち合わせています。
虐待をする人物は、その意味では極めて悪い人というわけではありません。
良い面も悪い面もある普通の人です。
つまり私たちの誰もがその可能性を秘めている、ということです。
しかしたったひとつ。
虐待を行ってしまう人物は「子育てに向いていない人だった」ということだけは確かでしょう。
そしてここから私の極端な意見を書きます(これが賛否両論あることは理解しています)。
子育ては、子育てに向いている人に任せるべき。
すべての親が子育てに向いてるわけではない。
子どもが生まれたら、親が子育ての責任をすべて負う、ということを常識にしている社会は非常に未熟である。
その未熟な常識をたった今手放し、子育てを国単位で請け負うことのできるインフラをいますぐ整えることが必要。
そして子育ての仕事は、プロフェッショナルとしての水準を国単位で図り、最も大切な仕事として高い給与を与えられる。
これが私の結論です。
つまりこういうことです。
子どもを産んだからといって、すべての人が子育てをしなければならない、ということはなく、子育てに向いてる人が、プロの仕事として子育てをうけおえばいい。
一見ぎょっとするアイディアですが、現時点で、子供たちをこのような虐待死から守るためには、これしかないと私は考えています。
プラトンの国家では、文化が進んだ国では、すべての子供は国家のものであり、親は生殖的な部分では関わるし、自分が産んだ存在だということは認められているが、けっして親の所有物として子供は扱うことはない、と書かれています。またアカシックレコ-ドを読むと、人類がある程度の水準に達すると、それがスタンダ-ドとなることが情報と記載されています。
理想論として私はこれを書いているわけではありません。
いつまでも「あの人はおかしい」とか「親としてこうあるべき」とか、そのような議論にしがみつく間に、子どもたちはいまこの瞬間も危険にさらされ、けっして虐待死は防ぐことはできないでしょう。
私自身は幸い、夫婦そろって子育てに向いているタイプだと思います。
子どもといるととても楽しいし、充実感を感じます。けっして声を荒げることはありません。
しかし私の母は子育てに向いていないタイプでした。
母は私に手を挙げたことはありませんが、自己実現できないお寺での生活に大きなストレスを抱え、精神的な危機を抱えており、私が育った環境はそれなりに、危ういものでした。
子どもが生まれたら親は誰しもこうしなければならない、それがいやだった産まない方がいい、という門切り型の考えが少子化を進め、同時に、虐待を生み出している、ということに私たちは気がつくときでしょう。
実際、親はこうあるべき、という常識にしばられることで、いま子育てをしている人はとても多くのストレスを感じていることでしょう。
私の周りではいま子育て世代が多いのですが、母親の苦労はあまりにも大きく、そして父親はあまりにも孤独です。
幸い、私は妻の実家の両親が近くにいるので、子育てを大いにヘルプしてもらい、精神的なストレスは大幅に軽減されています。
しかし同世代で子育ての責任を、夫婦、あるいは片親だけで、すべてとらねばならない人たちの様子を見ると、表面化はしていませんが、誰もが「虐待一歩手前」という可能性を秘めていることは間違いがないのです。
まずは私たちの社会の常識を疑うところからスタ-トしなければ、けっして子供の虐待を防ぐことはできないでしょう。
この記事へのコメントはありません。