魔を祓う秘訣
魔とは「間」のこと。
魔が差したという言葉を、犯罪行為を行った人から聞くけれど、
そこには魔が入り込める余地のある「間」があるということ。
自分がまともで、
常識がある人間で、
ぜったいに間違うことはないと思っていても。
そこにほんのすこしの「間」があるなら、
いつでもそこに魔があるのだと思っていた方がいい。
禅などでは、参禅中に至高体験が訪れたり、圧倒的な視覚的イメ-ジがやってきたとすると、
それは「魔境である」といい、師にぶんなぐられる。
これはなぜなのか?
至高体験そのものが魔なのではなく、
至高体験をしているその人のなかに「間」があるなら、
その体験を本質的な成長へと活かすことができなくなり、
至高体験によって抑圧された自己愛や傲慢さがあふれだすこととなるために、
それを「魔境」と呼ぶのだ。
究極のところ誰でも至高体験は可能だ。
人里離れた寺へ行き、一か月ほど決められたプログラムをこなせば、ほぼ誰でも「覚醒した」と思えるような至高体験を得ることはできる。
しかし本人のなかに「間」があるなら、それは定着しない。
定着しないどころか、自己愛や傲慢さに囚われ、その後の人生のプロセスのなかで、致命的な欠損をもたらす場合もありうる(もちろんすべてがそうだとはいわないけれど)。
さて。
この「間」とはなんだろう?
たぶん一番わかりやすくいうなら
「ズレ」
のことだ。
言っていることとやっていることが違うとわかっていながらも
ひっこめることが出来ずにいるときにやってくるズレ。
誰かをとても愛し、欲したとき。
ようやくその人と結ばれたとき。
どこかでふっと感じるズレ。
求めているものが現実になったときに
どこかでふっと冷めてしまう温度のズレ。
夫婦関係のなかでのほんのわずかなズレ。
この「ズレ」があるとき、そこに「間」があり、「魔」が入ってくる。
最初はとても小さなズレ・間の感覚。
やがてそれがだんだん大きくなってきて、
決定的になってきたときに、
そこに魔を基にした「善悪」が展開される。
最初はちいさな溝だったはずの人間関係のズレが
巨大な谷底ほどの間に広がっていく。
そしてそこに大きな「魔」が入る。
一度、魔に取りつかれてしまうと
本人のなかでの「善」が「悪(他者へ支配)」となっていることに気が付かなくなり、
破滅的な場所まで突き進むことになる。
大きなところでは戦争もまったく同じこと。
最初は小さなズレ・間だったものがやがて国家的な巨大な谷間にまでひろがってしまう。
そして強力な「魔」にとらわれ、お互いの正義の元に、支配がはじまる。
小さなところでは仕事選びなど。
最初はこれくらいのズレは我慢できると思っていたものがだんだん広がり、自分のやりたいことと求められていることが大きく隔たる間にまでひろがり、そこに「魔」が入る。魔は言う。止まることは死ぬことと同じだと。
そして魔はその人をむしばみ、うつや自殺へまで追い込んでしまう。
仏教やエソテリシズムの教えでは
もし人が全的な成長を遂げていくなら、
「間」に関する自己認識を前提にすることが大きなポイントであると説く。
現実的なズレを修整することが重要なのではなく、
ズレを認識し、いまズレている、ここに間があるのだと、初動のときに気が付くこと。
初動でズレに気が付いていれば、それは「魔」をはらうこことと同じだ。
しかし「甘い誘惑」にとらわれたとき。
抑圧された自己愛や傲慢さが
その「ズレ」を「なかったこと」にしてしまう。
本当はだれでも初動で気が付いてるはずなのに。
そして小さなズレから、大きな間が生まれ、そこに「魔」が巣くうのだ。
魔とは外にある力ではない。
あなたのなかにあるズレ・間がやがて大きくなったときに、そこに魔が生まれる。
初動でズレ・間に気づくこと。
これが「魔」をはらう秘訣。
追。
私もたくさんのズレから、たくさんの「間」をもってきました。
そしてたくさんの「魔」にとらわれ、落ちてきました。
けれどいまわかるのは、すべて自分のなかの「間」をごまかすことから生まれた事象であり、自分自身の内面の現れそのものだということ。
初動で魔をはらうこと。
古来から仏教でいわれるこのことの大切さは、もちろんずっと前から頭では理解できていたのですが、ようやく本当に理解ができるものとなりました。
けれど人間はどこまでも間違うもの。
究極のところ、ズレはだれにでもあるし、間がないひとなどいない。
つまり魔を持たない人もいない。
けれどそのまま落ちていくのか、それとも自分自身のちいさなズレに気が付き、本当に自分がやりたかったことは何なのかをもう一度見直すことが出来るのが、人間です。
間は、魔がはいるものでもあり、いつでも自分で自分を変えることが出来るという大切な「間」でもあるのです。
人間という言葉に「間」が入っているのは、何にでもなりうる間という「可能性の矢」をすべての人が持っているということでもあるのでしょう。
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