鬼にむしゃむしゃと食べられてしまう話【ブッダスクール通信vol.98】
みなさま、こんにちは!
ブッダスクール通信メルマガ担当のさめじまみおです。
まずは、昨日の熊本地震により不安な時間を過ごされているみなさまへ、心よりお見舞い申し上げます。
一日も早く、安心して過ごせる日常が戻りますよう、お祈りしております。
さて、突然ですがわたしの旧姓は「新井」といいます。「あ行」。
ということはつまり、物心ついたときから、新学期の自己紹介では、ほぼ毎回トップバッターでした。青木さんや相沢さんが同じクラスにいない限りは。
しかも父の仕事の関係で転勤が多く、小中学校を合わせて4回転校しています。そのたびに教室の前へ立ち、「自己紹介をどうぞ」と言われる人生でした。なのでいつでも幼いわたしは考えていました。
「さて、今回は何を話そう。自己を、紹介するって、どういうことなんだろう?」
……この問いは、いつの間にか「わたしとは誰なんだろう?」という、もっと根っこの問いへとつながっていったのでした。
その続きは、編集後記でお話ししますね。
それでは本日も、つうりさん特別コラムをどうぞお楽しみください!
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〔1〕齊藤つうり特別コラム
「鬼にむしゃむしゃと食べられてしまう話」
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自分とは何者か?
一度は誰もが考えたことがある問いだろう。
昔、私はまんが日本昔ばなしか何かで「鬼が自分の体と死体を入れ替えてしまう恐ろしい物語」を読んだことがある。
二匹の鬼が一人の死体を奪い合い、その争いに巻き込まれた男の身体が、死体の身体と完全に入れ替えられてしまう物語だ。
腕を奪われ、足を奪われ、最後には首まで奪われる。それでも男は生きている。そして「自分とは一体何なのだろう?」と青ざめ、途方にくれる。
そんなラストシーンが私の印象に焼きついている。
この恐ろしい話を大人になってから調べてみた。するとこの物語は「二鬼争屍(にきそうし)」という仏教の法話であることがわかった。
文字通り、二匹の鬼が、屍をめぐり争う話、というわけだ。
今回はこの物語を導入にして、つらつらと書いてみる。
あるところに、一人の旅人がいた。
旅人は旅の途中、誰も住んでいない廃屋で一夜を明かすことになった。夜になると、一匹の鬼が人間の死体を抱えて小屋へ入ってきた。すると、ほどなくして、もう一匹の鬼が現れた。
鬼たちは、その死体がどちらのものかをめぐって激しく言い争っていた。
一匹は「自分が運んできた死体だ」と主張し、もう一匹は「いや、それはもともと俺のものだ」と言い張った。
やがて二匹は、小屋の隅にいる旅人に気づいた。
「この死体は、俺のものか。それとも、こいつのものか」
旅人は二匹の鬼に迫られた。
嘘をつけば一方に恨まれ、正直に答えれば、もう一方の怒りを買う。逃げ道はなかった。
旅人は覚悟を決め、先に入ってきた鬼を指さした。
「こちらが先に来た」
指をさされた鬼は喜んだ。
「そうだろう。やはり俺が正しい」
しかし、もう一匹の鬼は激怒した。
鬼は旅人の腕をつかみ、そのまま引きちぎった。
すると、先に来た鬼は「すまなかった。ひどい目に遭わせたな」と言い、抱えていた死体から腕を一本もぎ取ると、旅人の身体にくっつけた。
怒った鬼は、さらにもう一本の腕を引きちぎった。先に来た鬼は、また死体から腕を取り、旅人にくっつけた。
それでも怒りは収まらない。
足を引きちぎれば、死体の足がくっつけられた。胴体を奪えば、死体の胴体が与えられた。最後には首まですげ替えられた。
とうとう旅人の身体は、すべて死体の身体と入れ替わってしまった。
二匹の鬼は、地面に残された旅人の元の身体を分け合い、むしゃむしゃと食べた。そして満足すると、小屋を出ていった。
あとには、旅人だけが残された。
旅人は呆然とした。
先ほどまで自分だった身体は、鬼に食べられてしまった。今、自分の身体として動いているものは、もともと死体だった身体だ。
それでは、自分とは何なのか。
食べられた身体が自分なのか。ここに立っている身体が自分なのか。自分は生きているのか。それとも、すでに死んでいるのか。
考えれば考えるほど、何もわからなくなった。
旅人は小屋を出た。
道を歩いていると、一人の僧侶に出会った。旅人は、自分の身に起きたことをすべて話した。
僧侶は答えた。
「お前はそもそも誰でもないじゃないか」
これが物語の概要だ。
なんとも奇妙な物語である。
子供の頃に読んだ印象と大人になってから読んだ印象は随分違ったものだった。
昔はとにかく無気味な物語である、という印象が残ったが、何をいわんとしているのか、という意図や、また仏教の法話であるという視点から捉えると、なるほど、そういう話なのかと読み解けてくる。
これは、私たちのアイデンティティにまつわる話なのだ。
私たちは誰しも自分自身の固定的なアイデンディティを持っている。
先日亡くなった美輪明宏は、自らを表現者として位置付けていた。
美輪明宏のように、90代まで歌うことや表現を続けられた人はそれでかまわない。
しかし時に私たちは、それ以前にアイデンティティを手放さなければならないタイミングを迎えることがある。
たとえば、仕事で大きな役を担っていた人が定年を迎えるとき。
あるいは、子育てに時間を費やしていた人が子離れを迎えたとき。
また時には、疾患やトラブルなどで、それまで行っていたことにストップをかけざるを得なくなったとき。
そんなとき、私たちは
「まるで自分の腕が切り取られて、遺体とすげかえられてしまったような感覚」
に襲われるのではないだろうか。
そして立て直そうと思っても、また一つ、また一つと積み上げてきたものが崩されることが人生には起こり得る。
そんなとき
「これまで自分だと思っていたものがすべて失われてしまったような感覚」
に包まれるかもしれない。
主人公である旅人は、人生という旅のプロセスを表している。
そしてそこに唐突に訪れる「鬼」とは、人外の存在であり、意識では把握することのできないトラブルや不吉なものを表しているといえる。
そして旅人は元の肉体を鬼に食べられてしまい、屍に宿るものになってしまった。
物語では描かれてはいないが、もし私がそんな目にあったとしたら、こう思うはずだ。
「いったいこのような状況でも私は人間なのか?生きているのか?死んでいるのか?なぜ私はこうして意識を継続できているのだ?」と。
もちろん現代では、こうして旅先で鬼に出会い、自分の肉体をむしゃむしゃと食べられてしまい、屍と入れ替えられてしまう、ということ自体にリアリティはない。
しかし「これまで自分だと思っていたものが、なんらかの事情であっという間に崩壊し、消えてしまい、今の自分が生きているのか死んでいるのか、なぜ意識を継続できているのかわからないほどになる」という状況そのものは、十分に起こりうるはずだ。
そうだとするならば、この旅人の悩みは決して、特定のものではなく、このような経験を得たことのある人にとっては十分に共感し得るものだといえる。
そして何より面白いのは、この旅人が悩み、さまよい、僧侶からアドバイスを受ける場面だ。
僧侶は言った。
お前はそもそも誰でもないじゃないか。
これはどういう意味だろう?
ここから少し私の考え方を書いてみる。
自分とは何だろう?
意識の主体とは何だろう?
それは肉体だろうか?
脳だろうか?
それとも魂だろうか?
宇宙だろうか?
私は意識の本質とは
「意識の連続体」
であると考えている。
私はこれまで、体外離脱を経験的に探究してきた。
そして肉体を超えた体験を繰り返してきた。
私たちの意識は、物理的肉体のみに縛られたものではない。
物質、エーテル、アストラル、コーザル、メンタル、ブッディ、マナス、モナドとあらゆる領域につらなる「連続体」なのだ。
そのため私は、意識の主体とはどこにあるのか、という問いに対して、脳に由来する、身体にある、魂にある、宇宙にある、といった議論をすることがとても苦しくなる。
私たちは意識の連続体であり、一なるものであると同時に、物質でもある。
そして仏教で言うところの「仏」とは、「ほどけ」からきているとする説が私は好きだ。
つまり固定的なアイデンディティからほどかれるとき、私たちは意識の連続体として自分自身である「ほとけ」を取り戻す。
やや遠回りをしたが、この二鬼争屍の物語で、僧侶が伝えていることはまさにこのことではないだろうか。
すっかり元の自分が失われ、屍と入れ替わってしまった。でも自分という意識はここにある。
僧侶は言った。
「そもそもお前は誰でもないじゃないか」
社会的役割は、世間が私たちに仮に当てはめたものにすぎず、私たち自身ではない。
だからそれが鬼・人生の突発的なトラブルのようなものによって失われたとしても、何も思い悩むことはない。
そして私たちの根本的なアイデンディティとなりうる肉体も、私たち自身ではない。
その文脈で捉えると、僧侶の「お前は誰でもない」という言葉は、質感とエネルギーを一段と増してくる。
そして逆説的に「誰でもないなら、この自分とは何なのか?」という問いに立ち戻ることとなる。
大切なことは、外側の何かを探し求めることではなく、自分が何を自分自身とするのか、という自己認識である、とこの僧侶は暗に示している。
そして外側の何か、誰であるかということに、自分自身のアイデンディティを置くことを手放し、内面へと自己を見いだそうとすることがここでは求められている。
そしてどんなに外側の何かが失われ、誰であるのかが見えなくなっても、ありのままを受け入れるしかない。
たしかに旅人のこれからは、ありのままを受け入れることにかかっているだろう。
この物語の核心はその点にあるのだ。
もちろんこの僧侶が伝えていることは、ひとつのアイディアに過ぎない。
私たちはそんなに簡単に、元の自分を捨てることはできないし、なんとか取り戻そうとして、ありとあらゆる手をつくすかもしれない。
現代なら、鬼を相手に裁判をするかもしれないし、賠償金で償ってもらうかもしれないし、SNSで攻撃するかもしれないし、論文を作り、ひとつの理論体系にするかもしれない。
けれどよくよく考えてみると、たしかにそれらの手を尽くしたとしても、失われたものが再び手に入るわけではない。
起こったことは起こったこと。
そこに意味をつけようがつけまいが状況が変わるわけではないし、再び人生をやり直すことができるわけでもない。
そう考えてみると、たしかにこの話は、どんな人にも当てはまる、普遍的な内容となるのだ。
そんなわけで、私は今日も考える。
自分が何者かによってすっかり入れ替えられてしまって、元の自分がむしゃむしゃと鬼に食べられてしまったら。
うーん。
それはそれでなんとかやっていくしかないんだろうな、と。
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〔2〕最新スクール情報
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【募集中】解放と変容ワークショップ《オンライン》
2026年8月29・30日(土・日)13:00ー17:00
「変わりたい」と願っているのに、なぜか同じパターンを繰り返してしまう。そんな経験はありませんか? このワークショップでは、私たちを知らず知らずのうちに縛っている古い信念や役割、アイデンティティを見つめ直し、本来の自分とつながるための「解放」のプロセスを体験していきます。
2日間にわたり、ブッダプログラムスクールの体系に基づいた講義と、ボディ・マインド・スピリットへ働きかけるパワフルなワークを実践。さらに、インストラクターによる丁寧なファシリテーションと、ワークショップ終了後7日間の継続ワーク(任意参加)を通して、変容を日常へと定着させていきます。
「表面的ではなく、本当の意味で変わりたい。」そんな願いを持つ方にとって、自分自身の本質と出会い、新しい人生の一歩を踏み出すきっかけとなる2日間です。
【募集中】アカシック ベーシックコース《オンライン》
2026年10⽉31日(土) 開講
この4日間のクラスでは、アカシックレコ-ドに関する基本的な概念、読み解くための方法、そして他者をリ-ディングするための実践的なテクニックを習得することができます。日本で最も多くのアカシックリ-ダ-を育成した経歴を持つ齊藤つうりによる長年の経験と豊富な知識によって、誰にでもわかりやすい講義や、凝縮したワークによって、非常に充実した内容です。
アカシックリーディングがまったく初めてという方から、様々なスピリチュアルな体験を経ている方まで幅広く、アカシックレコードを読む楽しさ、面白さ、そして感動を存分に味わう時間となることでしょう。またグル-プでワークを行うことで、ひとりでは決して体験することができない、他者を読むという経験を積むこととなります。
そして、ただ単にクラスを受講したというだけではなく、この4日間を終了することによって、恒久的な変化があなたに訪れることでしょう。そのことによって、あなたはアカシックレコ-ドという存在が、あなた自身と密接に関連しており、仕事、人間関係、健康などのとらえ方に大きな変化が起こることを体感することでしょう。
【募集中】アカシックエキスパートコース《オンライン》
2026年12月5日(土)開講
本コースは、アカシックレコードリーディング・ガイドのスキルを向上し、あらゆる領域で活用するためのコースです。またアカシックレコードの全体像を理論的に理解し、より詳細な情報を扱っていきます。
アカシックをスピリチュアルと呼ばれる領域だけではなく、科学・量子力学・ユング心理学といった観点を取り入れながら深めていくために、コース生は多角的かつ、実用的な領域でアカシックを活用することを可能とします。
そしてまた個性化の傾向性を、身体症状や自分自身が住う環境、アカシックグリドといった観点から深めていくという独自の方法を行い、「なれる最高の自分」を本質的に生きるためのクラスといえるでしょう。
非常に幅広いワークを取り扱い、受講者のアカシックの可能性を大幅にひろげてゆきます。
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〔3〕編集後記
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自己紹介では、いつもこんなことを話していました。
「東京からきました。新井みおです。文鳥を飼っています。マンガを描くのが好きです。」
もちろん、全部本当です。
でも、子どものわたしは、いつも心の中で首をかしげていました。
「けれど、東京から来たんじゃなくても“わたし”だよね? 文鳥を飼っていなくても“わたし”だよね? マンガを描くことに飽きて描かなくなったとしても、やっぱり“わたし”だよね?
あれ、名前が変わっても、ひょっとして“わたし”じゃない……!?」
そんなふうに考え始めると、足元がぐらぐらと揺れて、自分だけが宇宙に放り出されてしまったような、心もとない感覚になっていました。
そんな感覚と問いを抱えたまま大人になったある日、『The Invitation(インビテーション)』という一篇の詩に出会いました。
「あなたは何を仕事にしているのか。どこに住んでいるのか。何歳なのか。そんなことは知りたくない。」
そんな言葉から始まり、その人の肩書きや経歴ではなく、人生をどう生き、何を大切にし、何に心を震わせる人なのかを静かに問いかけていく、とても美しい詩です。
読み終えたとき、子どものころから抱えていた「わたしとは誰なんだろう」という揺らぎが、すっと静まったような気がしました。
そうだ。
わたしは、何を仕事にしているかとか、どこに住んでいるかとか、何を学んできたかとか、そういうものだけでできている存在ではない。
もっと深いところに、「わたし」がいる。
わたしはもっと深いところで、命というものを宿したからだを持ち、なにかにふるえる心を持ち、美しいものと響き合いながら、刻々とうつろう日々と世界を、観ているのだ、と。
それこそが”わたし”、なのかもしれない、と。
もし興味を持たれた方は、『The Invitation』で検索すると、日本語訳を掲載しているサイトもたくさんあります。ぜひ読んでみてください。
きっと、自分自身に向けた問いとして響く一節が見つかると思います。
その中に、きっと”わたし”を感じることと思います。
今日も、最後までお読みくださり、ありがとうございました。
文責:さめじまみお

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